『感覚の分析』(エルンスト・マッハ) 〜 【タンゴ:ゼロアワー】(アストル・ピアソラ)

感覚の分析 (叢書・ウニベルシタス)

感覚の分析 (叢書・ウニベルシタス)


はじまりはマッハだった。


アインシュタイン相対性理論へと連なる「相対化」という概念も「思惟(思考)の経済」もマッハの口からこぼれたものだった。だがマッハの「相対化」はアインシュタインとは少し異なる。アインシュタイン宇宙論のなかで「相対化」を見事にくりひろげてみせたが、マッハにとっては空間と時間にとどまらず、「物質と精神」「物理と心理」の関係こそが問題だった。そしてそこに「相対化」を持ちこみ、「感覚」という視点にたどりついたものだった。

エルンスト・マッハは、一八三八年二月十八日モラビアチェコ)生れ。四歳でウィーンに移住、十五歳にギムナジウムでカントの『プロレゴメナ』に感銘を受け、これの否定から「世界は連関しあった感覚の集合である」という視点をもつようになる。二十一歳でダーウィンの『種の起源』の洗礼を受け、二十二歳でフェヒナーの『精神物理学』に興味をもつ。四十五歳で『力学』を著しニュートン力学の限界から力学における相対性の体系化をはかる。

あらゆる質量、あらゆる速度、したがってまた、あらゆる力は相対的なものなのだ。相対的なものと絶対的なものを区別する必要はない。そんなものに出くわすことはありえないし、その判定を迫られることもない。(『力学』1883)

物理現象は「事実」か、「経験」か。

ニュートンが、事実だけを研究するという彼の方針に反した行動をとったということは注意するまでもなかろう。絶対空間や絶対運動について云々できる人は一人もいない。それは経験の中に決してあらわれることのない単なる空想の産物である。詳しく説明してきたように、私達のもっている力学の基本法則はすべて、物体の相対位置と相対運動に関する経験なのだ。(『力学』1883)

そして一八八七年にマイケルソン=モーリーの実験があり不変の光の速度が発見され、エーテルの世界がが幕を閉じる。光速度と相対性があわさり、アインシュタイン相対性理論に結びついていく。この着想はアインシュタインの瞠目だった。一方マッハは「感覚」にわけいっていく。

樹木は、堅いざらざらした灰色の幹、風にそよぐ幾本もの枝、滑らかで艶々した撓みやすい葉、こういうもの一全体として、まずは一つの不可分な全体として現れる。丸々とした黄色い甘美な果物、舌を出して燃えている明るく暖かい火、われわれはこういうものをも同じく一つのものとしてみる。一つの名辞は全体を表わす。一つの語句は、まるで糸をたぐるように、共属している記憶の全部を忘却の淵から一度にひき出す。(『感覚の分析』1886)

これはまるでオブジェクト指向のテキストの断片のようにも思える。いまでもたっぷり思考を刺激してくれる。


一八八三年は日本では鹿鳴館の時代、ウィーン博覧会が開かれ日本に「図案」の概念が芽生え、米国でサイエンス誌が発刊された年である。一八八五年には摩天楼が出現し、日本では伊藤博文が組閣する。一八八六年はヴィリエ・ド・リラダンが『未来のイヴ』を発表し、ガウディがグエル邸の設計に着手し、坪内逍遥が『小説真髄』を発表した年。世界が衣替えをする前夜のような年だ。ルドルフ・シュタイナーも『ゲーテ的世界観の認識論要綱』で神秘主義への準備をしていた。シュタイナーは一九〇四年から五年にかけて『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』『アカシャ年代記より』を著し、一息に神智学・超感覚の世界へのぼっていく。マッハが『力学』『感覚の分析』を出したのはそんな時代だった。世界観が柔らかく変容しつつある時代だった。

マッハが注目したのは、まずぼくたちは「直接」世界を知る手立てをもたないということ。カントの「物自体」も概念としては確認できるが直接触れることはできないということ。さらに物の運動も絶対的な軸を持つことはできず、あくまで相対の上に成立するということ。そして科学は、世界を感覚して認識するための思考の経済としての役割があるということ。

そして感覚からどのように認識にいたるかをさぐる。そのときに気になったのがぼくたちのこころのなかにあるあの「世界像」だ。

意識が完全にめざめるやいなや、人間は誰しも、すでに出来あがった世界像を裡に見出します。それが出来あがったのは当の本人がこれといって意識的に参与するからではありません。むしろ反対に、人々は自然および文明の賜物として、何かしら直接的に了解されたものとして、出来合いの世界像を受取ります。(『認識の分析』1894)

さて、感覚と認識のあいだには何があるのだろうか。情報である。だがマッハはまだ「情報」という言葉をつかんでいなかった。それでマッハは、感覚後のプロセスを十分に科学的に整理できなかった。そこで心理学、哲学を動員して科学のなかで統合しようとした。

マッハは感覚の重要性に気づいていた。およそ生きているかぎり、感覚の外に出掛けてしまうことが出来ないことを知っていた。ニュートンは感覚を消去しようとしたが、マッハは感覚の箱のなかから世界を眺めようとした。

だが、マッハは不器用だった。これだけの新鮮な思索を表現しきるだけの器量にかけていた。そしてかろうじて飛行機の速度の単位などでは名をとどめているものの、ニュートンアインシュタインのあいだにあって社会からは半ば忘れられた人になっている。そしてアインシュタインが『一般相対性理論』を発表した翌年、一九一六年、ミュンヘン郊外でひっそりと息をひきとった。誕生日の翌日だった。


ニュートンよりも、アインシュタインよりも、マッハを思いだしておきたかった。


さて、マッハにはアストル・ピアソラの【タンゴ:ゼロアワー】を贈りたい。ピアソラの晩年の作であるが、【アディオス・ノニーノ】のころにもどったような緊張感が一面に張り詰めている。薄膜の鏡のうえの一夜かぎりのタンゴ。研ぎ澄まされた感覚が襲ってくる。

世界はわれわれの感覚だけからなりたっている。(『感覚の分析』)