『グローバル・ブレインにリンクする日』(R.U.シリアス) 〜 【Motherless Child】(リッチー・ヘヴンス)

グローバル・ブレインにリンクする日

グローバル・ブレインにリンクする日

  • 作者: R.U.シリアス,R.U. Sirius,サトウリツコ,南宮浩基
  • 出版社/メーカー: インターナショナルトムソンパブリッシングジャパン
  • 発売日: 1996/06
  • メディア: 単行本
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ウォーホルは俗物の天才だった。


誰もがウォーホルを目指したが、誰もウォーホルには及ばなかった。あまりにもありふれている所為か、ウォーホルらしさが捉えきれなかった。ウォーホルに対峙すると、禅問答の只中に放りだされた僧のようになってしまう。これは只事ではない。ウォーホルには固着する思想はなかった。いつも自由に考え、自由に振る舞い、誰とでもつきあった。ウォーホルの前には右も左もなかった。だからウォーホルは天才になれた。誰もが思わずはいりこんでしまうウォーホルという場所そのものだった。

一九六九年八月十五日から三日間、ウッドストックで前代未聞のロック・フェスティバルが開かれる。のべ四十万人が集まり、「若者」の文化を強烈に表現した。オープニングはギター一本のリッチー・ヘヴンスの【Motherless Child】、強烈なゴスペルがファンファーレのように飛ぶ。他に、ジャニス・ジョップリンザ・フージミ・ヘンドリックスジョー・コッカーテン・イヤーズ・アフタージョニー・ウィンター、ジェファーソン・エアプレイン、CSN&Yなど若者の神様たちが一堂に介してロックを奏でた。

ヒッピー、フラワー・チルドレンをはじめとするカウンター・カルチャーが、ポップでサイケデリックなアートとむすびつきながら噴出した日であった。もちろんこのときはまだCDもMTVもインターネットもない。彼らを結んでいたのはラジオとファッションとコンサートとドラッグだった。

翌一九七十年の八月には、今度は英国のワイト島でロック・フェスティバルが四日間にわたって開かれる。四日間でのべ六十万人。先年の米国に対する英国という向きもあるが、この一年間でロックが音楽として商業的に動き出していた。ビートルズだけでなく、様々なロックがカウンター・カルチャーとともに商業になっていた。また、ワイト島フェスティバルでは、「エレクトリック・マイルス」と呼ばれる時代のマイルス・デイヴィスがフル・メンバーを従えて伝説のコンサートを行った。このなかにはエレクトリック・オルガンを弾くキース・ジャレットもいる。

フラワー・チルドレンは、環境や自然、体制、アートに敏感だった。彼らの神様のなかにはロック・スターにまじってバックミンスター・フラーアンディ・ウォーホルがいた。やがてこの文化の動向が『ホールアース・カタログ』を生み、ハッカーとよばれるこどもたちがインターネットを建設していく。


R.U.シリアスは、そんな文化の文脈のなかを生きている。一九九十年に、彼は『MONDO2000』というカウンター・カルチャーの前衛誌を出版する。あまりに鮮やかに文化の淵から事態・動向を編集してみせた。二十世紀のなかで是非あげておきたい雑誌のひとつである。

アンディ・ウォーホルはメディアだった。彼はありふれたものに自分の名前をスタンプしてまわり、優雅に情報娯楽時代の文化のすべてを掌握した。アンディは子どもがおもちゃで遊ぶようにメディアと遊んだ。無邪気な遊びを。

シリアスのこどもっぽく尖ったことばが、ウォーホルについて語るときは別人になる。それほどまでに向きあっている。これが文化の淵の態度である。


インターネットは中心のない庭である。シリアスはそんなインターネットのなかの文化の動向を見据える。

問題となる部分が、全体の一部であり、かつ再構築されたものが独自の作品と認められる場合限りは、エンターテインメント産業はしばらくの間流用を許可することによって、アートの進化に対して寛容に接するべきだろう。この小さな一歩は、ハッカーの論理、「情報は自由になりたがっている」ことに気付くことから始まっていくに違いない。

シリアスのなかには、サンプリング・ミュージックとコピーレフトとウォーホルがある。こんな一途さが文化には必要だ。

【WIRED】にウッドストックは似合わない。カウンター・カルチャーの現場ではなく、カウンター・カルチャーの風をパッケージ化して衛生的に家庭まで届けているようだ。デュシャンよりウォーホル、レイモンドよりストールマンマクルーハンよりネグロポンティ、ラインゴールドよりシリアス、もちろん【WIRED】より【MONDO2000】だ。インターネットの情報をめぐるナイーブなアナキズムをこそ発揮したい。


インターネットはいま「インターネットとは何であるか」の学習期間を終わり、いよいよデジタルの世界を建設する時期にさしかかっている。だから実現のための技術以上に、文化が踊りだすのがよい。時にカウンター・カルチャーは禅林の呟きになる。

R.U.シリアスは、そんなデジタルの世界を「グローバル・ブレイン」になぞらえる。いささか短絡的にはすぎるが、おそらくは二十一世紀のウォーホルたちが共通に抱いている夢想であるのだろう。


やはり、二十一世紀のウォーホルたちには【ウッドストック】からリッチー・ヘヴンスの【Motherless Child】を。そろそろ人の母型を探す旅に出掛けたい。

R.U.シリアスは、人の感覚を延長して世界に連なる技術にバーチャル・リアリティ(VR)を見ているが、ぼくは「ことば」を見る。デジタルという世界は電気と電子に遊んでいるが、そのはじまりは世界を切り取り、世界をシンコペーションしていく「ことば」にほかならない。インターネットはことばの鏡である。


電気羊が夢を見るのは「ことば」を持ったときだろう。

『「書」で解く日本文化』(石川九楊) 〜 【BTTB】(坂本龍一)

「書」で解く日本文化

「書」で解く日本文化


日本の中世の秋は東アジアに彩られていた。


「公家vs武家」というおきまりの構図で見てしまうと、どこか日本が無明の闇のなかに隔絶されてゆらめいているように見えてしまうが、そんなことはない。僧たちを中心に大陸へ出掛け、最先端の知識や技術を日本にもたらしたり、元冠など「外敵」の襲来に備えてもいた。日本ばかりでなく、大陸も北方民族の活動が活発化するなかで揺れ動き、大陸の僧たちも日本に渡り安住の地を求めたりもした。蘭渓道隆、無学祖元、一山一寧はみな大陸から日本に亡命した。大陸では西夏文字女真文字など、様々な文字が作られた時代でもある。

そんな日本の中世をみたとき、公家と武家だけでは事足らない。外交をどのようにしたらよいのか、最先端の技術をどのように獲得し伝えたらよいのか、宗教・文化をどのように運んだらよいのか。公家も武家も東アジア圏の日本の「機構」としてとらえると、なんともこころもとなかった。

社会の構造としては、網野善彦がすくいだして見せた『無縁・公界・楽』が骨格を形成し、公家と武家では事足りぬ動向を巻きこむこととなる。これらの仕組みが準備されていなければ、経済だって文化だって破綻に向かっておかしくなかった。編集の動向はいつも淵にこそ屹立する。中世の日本のまんなかは薄い穴、エッジが沸騰的に踊り狂った時代だったのである。


もうひとつ、加えておきたいものがある。

いまだ多くの人の認めるところとなってはいませんが、臨済宗を中心とした禅宗はあくまで政治的な、文官政治機構であったという視点が、書史を考える上でも、日本の文化史を探るうえでも必要な観点であると私は考えています。

そう、禅林である。禅林こそが無縁・公界・楽を融通し、社会的機構として働いていた。経典の翻訳から外交、土木技術などの先端技術の指導から、能などの芸能から茶の湯に花、枯山水の庭から書画、平仮名の発明から日記文学まで。あらゆる場面に禅林が関わっている。だが禅林は公的機関などではなく、ときには無縁として、ときには公界として、ときには楽として振る舞った。日本文化の洗練は、まさに禅林でしたためられていた。

余談ではあるが、こんな背景があったからこそ、利休も茶の湯でもあり、政治でもあることができた。そしてそれをもはや抑えられぬほどに育ってしまうと、自刃を選ばざるをえなくなったのかも知れない。利休の洗練は冷たい洗練だった。すべてを一瞬で切り取ってしまう洗練だった。誰もが、利休の手のなかで一輪の朝顔になってしまうことを怖れた。おそらくは利休が一番よく知っていたはずだった。

平安末期から鎌倉初期にかけて、少しずつ文字が宮廷を出て、武士、あるいは集落の長たちに伝わっていきます。それは仮名文字であったからです。もう一つ、書の側、言葉の側からみれば、文字の普及運動としての法然の浄土宗、親鸞浄土真宗、あるいは日蓮法華宗の大衆への布教などによって漢語が民衆のもとに届けられたことが考えられます。

いまでこそ日本はもっとグローバル戦略をとらねばならないというが、禅林においてもいつも<世界>の動向を胸に動いていた。禅林がはじめてではない。縄文の風も天平の空も<世界>の気配に満ちていた。そんな<世界>を見事に編集し、日本らしさにまで結晶させる。それが日本の方法だった。ともすれば日本らしさが鼻についてしまうあたり、日本の抱く<世界>が見えにくく、バッシングの対象にさえなってしまう。それほどまでに日本であった。

仏教典を中心とするところの漢文を、国家を挙げて学習し、漢文・漢語に通じた識字層(学者と言ってもいいでしょう)が大量に輩出し、それを背景に中国文の語彙や文体、史書や詩集をモデルにそれらを倣ねて『古事記』『日本書紀』や『万葉集』が逆に作られていった事実を読みとることは容易でしょう。

漢文を訓読みすることで漢文のまま日本語として読み下せるようにしたり、漢語の文体の香気を漂わせる日本語の文体をつくり、さらに漢字を省略化し仮名文字をつくることで誰もがテキストを読めるようにする。そしてそれを総じて「日本語」としてまとめあげる。形でも音でも世界をなぞってしまう、恐るべき編集術である。この禅林の編集感覚については松岡正剛『山水思想』をあわせて読まれるとよい。


さらに明治にも同じ事態が起こっている。

明治という時代の幕開けは、食べ物も衣装も建物も「西洋」をまとわねばならなかった。これまで「縦書き・右から」が基本だった標記に、「横書き・左から」が加わった。外国より注目された日本の煙草や燐寸のデザインにも、ぎこちない横書きを利用し、それが逆に東洋のエキゾチズムを発揮することとなった。燐寸はそのラベルこそが商品を語った。だからこそデザインが重要だった。この小さな空間に日本の布置感覚がいかんなく発揮された。吉祥文様や故事などがたくみに織り込まれる。これが日本の近代「デザイン」の幕開けともなる。燐寸商標第一号は、明治十八年六月二十日登録、瀧川辯三による清燧社の「寝獅子」だった。

建築は燐寸ほど簡単ではなかった。高く、頑丈な石造りの建物を建てるための技術が不足していた。煉瓦でさえ満足に焼くことは出来なかった。そこには英国人ウォートルスなど、どこからかやってきた風来のおかかえ技師が飛び回った。大火の後の銀座煉瓦街はウォートルスが構想した。だがこの多くの風来の技師たちは、禅林の無名の僧のように素性もあきらかでない者が多い。日本はそんな風来の者たちまでをも巻きこんで、日本らしさを作っていく。この明治の日本の事情については榧野八束『近代日本語のデザイン文化史』がよい。また都市計画の模様については藤森照信『明治の東京計画』がよい。明治という時代も日本の淵が沸騰していた。

最近ではラップ・ミュージックに瞠目したい。およそビートに乗りにくい日本語を微妙に発音を変え、外国語を巧みに忍ばせながら、いまでは見事なまでの「日本語ラップ」に仕立てられている。どこか浄瑠璃を思わせるノリの良さがある。これから百年もすると日本語の発音はより音楽的になるかも知れない。「チョー」など母音を強調する造語・発音も増えている。いま、メールで使われる言葉を見ていると、また新しい仮名化が起きつつあるのを感じる。


インターネットは世界をグローバル化する、という。たしかに海や山脈に隔てられることもなく世界の「ここ」と「そこ」がいきなり連絡される。国の境、文化の境を意識することもなく、そのまま繋がってしまう。インターネットには中心がない。すべての点が沸騰する淵である。

グローバル化とは、英語で文化を爆撃することではない。多種で多様な<世界>の文化を一途に編集して見せることである。


沸騰する淵には、坂本龍一の【BTTB】を贈りたい。坂本龍一もこのアルバムあたりから仮名化を起こしている。彼自身が使う言葉も優しくなったし、メロディもシンプルな構造のまま持ちだされるようになった。だから日本の編集より編集の日本に注目しておきたい。


日本はいま仮名の夢を見ている。

『麺麭の略取』(クロポトキン) 〜 【サマータイム】(マッコイ・タイナー・トリオ)

麺麭の略取 (岩波文庫 青 125-3)

麺麭の略取 (岩波文庫 青 125-3)


麺麭よ、革命が要する所の者は実に麺麭である!


「麺麭」(パン)こそはアナキズムの絶対の象徴だった。クロポトキン産業革命による機械の登場と機械の未来を見つめていた。人を社会的呪縛から解放する機械の姿を見ていた。

米国の大原野では、僅かに百名ばかりの人が、有力な器械の助を仮りて二三ヶ月働けば、優に一万人の多数を一ヶ年支へ得る程の小麦を産することが出来る。

ここに出発点があった。このように僅かな労力で大量に生産された食物を平等に分配することが出来れば、食物の不足の問題は解決できる。衣の問題も住の問題も同じように解決できる。平等に分配するか、自由に流通するか、十九世紀は揺れていた。十八世紀は「王」にかわり「市民」が社会の主役に踊りでた時代であった。そして産業革命で現れた機械は、はたして「王」なのか「市民」なのか。

「富」を平等に分配する仕組みさえ確立してしまえば、もはや「王」を代行する「政府」は必要なかった。これが無政府主義の発端である。ナイーブなリアリストである。


この「麺麭」とはいかなるものなのか。私的所有から離れているから平等に分配することのできる公共の産物である。日本ではこのような領域を「世間」と呼び、大陸では「江湖」と呼んでいた。禅林の僧たちも「江湖僧」と呼ばれていた。外交や文化戦略を担う公僕であったのである。

まだ、インターネットがさほど普及していなかったころ、作者が著作権を「放棄」して誰もが自由に利用できる「パブリック・ドメイン・ソフトウエア」(PDS)が賑わっていた。ソフトといえばそれは高価な時代であったので、重宝したものである。まずは人づてに入手を試み、それがかなわないときは秋葉原のショップへ出かけ、フロッピーを購入してPDSをコピーして帰る、という按配だった。

だが、PC/インターネットが社会に普及しはじめると、この仕組みがうまく働かなくなる。コピーされたPDSが改変され、名前も変えられて商品として販売されてしまう。エディタやゲームはこの格好のターゲットであった。これに業を煮やしたリチャード・ストールマン著作権を放棄せず、著作権を保持したまま流通させるコピーレフト運動をはじめる。そしてもともとはパブリックであったはずのUNIXが商用化されるにおよび、このシステムをGNUGNU is Not Unix)としてコピーレフトで製作しては流通させた。これを彼は「フリー・ソフトウエア」と呼んでみせた。もちろんこの「自由」とは「利用する自由」「改変する自由」「配布する自由」の三本の自由である。

これが大事な分岐点だった。デジタルという領域のなかに公共財を置く方法を生み出されると、これがもとになりやがてオープンソースが生れ、また出版・音楽サイドからはローレンス・レッシグ教授率いるクリエイティブ・コモンズが公共的なライセンス制度を体系化する。彼らもナイーブな国の住人である。

いまではワープロ表計算からエディタ、メール、ブラウザ、ペイント&レタッチ、ゲーム、プログラム開発環境にいたるまで、あらゆる場面に必要な道具がネットで自由に手に入る。

文明社会に於ては、総ての事物が相錯綜して居る、全体を変革せずして、何れの部分をも改良することは出来ぬ。故に吾人一日、或私有財産に打撃を加ふるの時は、其財産が土地か工業か何等の形式の下に在るにもせよ、吾人は総ての私有財産を攻撃せねばならぬこととなる。革命の真個の成功は之を要求するのである。

クロポトキン幸徳秋水も時代の風を受け、あまりに走りすぎた。なによりも機械の圧倒が彼らを走らせた。「私」の事情などとうに捨てていた。だが彼らが投げかけたもうひとつの問題、「公共性の行方」がいまインターネットでは重要な問題となる。インターネットは、いままさに建築がはじまったばかりなのである。だからこそ「麺麭」に眼を向けておきたい。


さて、ナイーブなアナキズムにはマッコイ・タイナー・トリオの【サマータイム】を。少し埃っぽい抒情が心を癒してくれる。


ナイーブなアナキズムは誰のこころのうちにもある。

『地球と存在の哲学』(オギュスタン・ベルク) 〜 【ボレロ】(ラベル、指揮:アンドレ・クリュイタンス)

地球と存在の哲学―環境倫理を越えて (ちくま新書)

地球と存在の哲学―環境倫理を越えて (ちくま新書)


地球がすすり泣く、とラフォルグは言った。


これほどまでに「地球」を自分の隣においてみせた言葉を知らない。いまでは人工衛星や月面から見た地球の写真、エイリアンに侵略されるスクリーンの地球など、あまりに地球の姿を見慣れている。自分の肉眼で地球の姿を目撃したことのある人はごく限られているはずだけれど、地球の姿はすでにありふれてしまっている。

「地球」は越境することのできない尺度のはずだった。だが、地球の外へ眼を持っていくことで、その境界もやすやすと突破してしまった。車窓から眺める風景と同じように地球を眺めることができるようになってしまった。奇妙なる風景が生れた。

近代になって「哲学」も尺度が消失してしまった。物理科学的に世界を理解することと、自分で世界を捉えることのあいだにいったいどれだけの差があるのか。世界はモナドで出来ているはずではなかったのか。なぜ紐が震えていなければならないのか。地球こそすべての世界ではなかったのか。

世界を説明し支配しようと努力を重ねる近代は、実のところ、「なぜ」から「いかに」への置き換えをはかる壮大な転換のプロセスに他ならなかった。近代はそれまでのいかなる文明にもまして、事物がいかに機能するか、事物をより効率的に操作するにはどうすればいいかということを私たちに教えてきた。同時に近代は、何かをする理由よりはその仕方に気を使う方向へと、人間を導いてきた。その点において近代は、倫理を根絶やしにする壮大なプロセスでもあった。ゲーテニュートンに対して行った非難の意味は、おそらくそのあたりにあるのだろう。すなわち、謎の解決に満足してしまい、その理由を求めようとはしないことである。

対象として世界を捉えようとした途端、世界は冷たく笑う。世界の逆襲である。しまった、と思ったハイデガーは人と世界を連絡し、存在学として世界に織りこまれた人というものを構想する。だが和辻哲郎はそれでは満足できなかった。空想のなかの空間でなく、いま生きている空間、風土のなかに錨を下ろそうとした。人はいま投げ出されている風土を越えて生きることはできない。

鈴木秀夫は、風土と文化・宗教に関係を発見する。そして『超越者と風土』を著し、砂漠型の風土と森林型の風土のなかで生きるひとのグランド・デザインを見せ、中尾佐助照葉樹林帯に流れる文化を発見した。

ベルクは、ハイデガーから和辻哲郎へ、そしてさらにそこに『風土としての地球』を見て、近代の捩れた世界像(世界観)に決着をつけようとした。『風土としての地球』では、「風土(エクメーネ)」と「地球」を等号で結ぶのが精一杯だった。地球が風土であっても、なぜ風土が地球であるのかはわからなかった。

そしてこの本、『地球と存在の哲学』が彼の転機となる。

しかしながらこの現実はひとつのものでも、ものの集合でもない。エクメーネは同時に地球であり人類なのである。けれどもそれは地球プラス人類でも、また人類プラス地球でもない。人類に住まわれるものとしての地球であり、そして地球に住むものとしての人類である。

アストロ・バイオロジーは、バイオロジーの出発点を人にしない。だから線形の進化論の夢を追わず、システムとしての生物の推移を見る。アストロ・バイオロジーでは、このエクメーネに相当する尺度を「人間圏」と呼ぶ。この尺度を見据えることで、世界と人の関わりを勘定し、対象としての環境論に拘泥せずに倫理を保とうとする。

尺度というのは単なる思考のための道具ではなく、世界のなかに住まうためのインターフェースである。だからハイデガーから和辻哲郎へ、そして「地球」という永遠の尺度にこそ向かった。ティヤール・ド・シャルダンだってミンコフスキーだって、みなこの尺度を大事にしようとした。だがこの尺度を大事にすればするほど、近代という薄い器のなかでは「神秘主義的」「カウンター・カルチャー的」「前近代的」に扱われたものだった。


そろそろ「地球」という言葉をラフォルグのようにさらりと語るころあいだろう。ながらく置き去りにしてしまったコンパスを手に物語を綴るべきなのである。そろそろ幼年期とはオサラバしたい。


さて、すすり泣く地球にはラベルの【ボレロ】(指揮:アンドレ・クリュイタンス)を。ラベルの【ボレロ】もストラヴィンスキーの【春の祭典】も、地球の果てしのない踊りである。そんな鼓動をふたりの作曲家はたしかに聴いていた。


たまには、地球の回転にあわせて散歩はいかが?

『植物知識』(牧野富太郎) 〜 【月の光】(ドビュッシー、シンセサイザー:富田勲)

植物知識 (講談社学術文庫)

植物知識 (講談社学術文庫)


花がなければつまらない。


小学生のころ、図書館でのお気に入りはSFと牧野富太郎の『植物図鑑』だった。他の図鑑はおよそ写真だったのだが、これは丁寧なドローイングで描かれていた。その夢とも現実ともつかない「植物というもの」にすっかりひきこまれていた。そして世界の半分は植物で出来ていると確信した。花がなければ世界から色が消え失せてしまうのだ。

牧野富太郎は、文久ニ年(一八六ニ年)四月二十四日、高知の造り酒屋に生れる。ロンドンで万国博覧会が開催され、ヴィクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』を発表した年。前年にはハーバード大学図書館に閲覧者用カードがつくられ、一八六三年にはロンドンに世界初の地下鉄が走り、ジュール・ベルヌが『地底旅行』を発表する。

牧野が生れた年のあたりで、時代が静かに「近代」に入れ替わっていく。近代は鉄と電気と情報で組み立てられた。世界の目録を作ってあまねくすべてを俯瞰し、世界をひとつの鍬で開墾しはじめた年だった。ロンドンの万国博覧会ハーバード大学図書館の閲覧者用カードも、世界の目録そのものだった。牧野はそんな時代を吸いこんで生きていた。

牧野は十七歳で上京するが、そのころはもうすでに植物に興味を持っていた。明治十七年、二十二歳の牧野は幸運にも東京大学理学部の矢田部教授のもとに入ることができるようになる。学生でも教員でもなかったのだが、牧野の学力をかわれてのことだったらしい。牧野は大学の図書館からすべて自由に利用できるようになる。だが数年後に牧野はクビになってしまう。部外者が自由に出入りするのはけしからん、ということもあるのだが、なによりも矢田部教授との関係がうまくいかなかったことに端を発するらしい。

牧野が二十七歳ではじめて見つけた新種に「ヤマトグサ」と命名。当時は名前のわからない植物を「発見」しても、その名前を調べるのが大変だった。外国の書物や雑誌に出ている植物を調べるのだが、それでもわからなければ、外国の専門家に鑑定を依頼することになる。だが、牧野は自分で命名・発表してみせた。以後2500種にわたり命名、採集した標本50万点。植物学の父といわれる所以である。

われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎(かこ)つであろう。花のために一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。

牧野富太郎は、全身から植物のダンディズムを放っていた。ダンディズムを放つためにはなによりも頑固で、なによりも優しくなければならない。

去(い)ぬは憂し散るを見果んかきつばた

牧野が広島県安芸の八幡村で広さ数百メートルにわたるカキツバタの野生群落に出逢ったときの歌。

そしてスミレ。

花が開いていると、たちまち蜜蜂のごとき昆虫の訪問がある。それは花の後ろにある距の中の蜜を吸いに来たお客様である。さっそく自分の頭を花中へ突き入れる。そしてその嘴を距の中へ突き込むと、その距の中に二つの梃子のようなものが出ていてそれに触れる。この梃子のようなものは、五雄蕊(ゆうずい)中の下のニ雄蕊から突き出たもので、昆虫の嘴がこれに触れてそれを動かすために、雄蕊の葯(やく)が動き、その葯からさらさらとした油気のない花粉が落ちて来て、昆虫の毛のあつ頭へ降りかかる。

先日、近くの小学校の図書館で蔵書整理で破棄される本を幾冊かわけてもらった。そのなかに『植物図鑑』が入っていた。久し振りのご対面となったのだが、ほとんど傷んでいない図鑑を見ると少々複雑な思いになる。

植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、且つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然の賜物である。実にこれは人生の至宝であると言っても、けっして溢言ではないのであろう。


敬愛なる牧野先生には、ドビュッシーの【月の光】(シンセサイザー富田勲)を贈りたい。遠くから月夜に浮ぶ花の囁きが聞こえてくる。


月の光は植物を照らす灯りである。

『龍の棲む日本』(黒田日出男) 〜 【危機】(イエス)

龍の棲む日本 (岩波新書)

龍の棲む日本 (岩波新書)


日本は龍穴の隙間に結ばれている。


ふと見るだけであちらこちらから龍が姿をあらわす。

ヤマタノオロチはおそらく大陸の記憶を持っている。渡来人のもたらした「たたら製鉄」などの先端技術の力とともに火と剣と畏怖すべきカミを生みだした。やがてそれが天を司る牝の龍と、地を司る牡の龍にわかれ、雷と雨をもって人に豊穣と恐怖をもたらした。先だって出雲横田たたら製鉄の操業を見学する機会があったが、たたら場のなかはふいごの音と天にたち昇る炎と熱と窯の鳴る音が織りなされ、まるで巨大な生き物の腹のなかに放りこまれたような気がした。

端午の節句には鯉幟をあげる。鯉は水のなかにいながら長い髭を持ち、龍と重ね合わせられた。そして鯉を龍に見立てて空を泳がせ節句を祝う。鱗と髭と眼に特徴がある。

山のふもとに住んでいたイクタマヨリのもとへ、あるときたぐいまれな美と威厳をそなえた男がやってくる。夜毎にやってきて棲むあいだに身ごもり、それをあやしんだ父母は名も知らぬその男の正体をみきわめようと、娘に寝床で男の衣の裾にに糸巻きの麻糸を通した針を刺すよう教える。朝になってみると、その糸は鍵穴を通って外に続き、そのあとをたどるとミワ山のカミの社に続いていた。そこで身ごもった子はカミの子であることをしる。そして残った糸巻きには麻糸が三勾(みわ=三巻き)残っていたのでこの地をミワという。このカミはオホモノヌシであり、三輪山はとぐろを巻く龍に見立てられる。もちろん三輪そうめんは、この麻糸の姿が重なっている。

大陸からやってきた風水は、地の龍穴と龍脈を見立て、地の相を最大にひきだし操る術を得ようとする。日本の津々浦々にあいている洞窟、底なしの池・沼は龍穴に見立てられ、それぞれが置くで連なっているとされた。

また、獅子舞にもおそらくは龍が入りこんでいる。岐阜県不破郡垂井町の南宮神社には「龍子舞」が伝えられる。獅子舞で太鼓やササラが欠かせないのも雷鳴がかかわっているのかも知れない。また牡鹿の長い角も龍の角(牡)に見立てられる。

出雲大社の御心柱は龍が巻きついて守っているとされる。

また龍や鯰は地震を引きおこすと考えられ、それを封じるために要石を据えた。

日本の龍は中国の龍とは異なる。大陸から原型がもたらされたのだろうが、そこに日本の風土、自然信仰、物語が組みあわさり日本に棲みつく龍が形作られていく。この龍のイメージが形成されていく様を覗くと、日本という風土・文化の編集のプロセスが見えてくる。
中国の龍については中野美代子の『龍の住むランドスケープ』がよい。

龍ばかりではない。仏教も西洋も日本の編集装置をくぐりぬけ、日本のカタチに昇華している。禅という方法も、背広も民主主義も、編集され日本に棲みついた。日本はそんな編集国家であったのである。


金沢文庫に、行基式日本図が残っている。残念ながら西半分しか現存していないが、日本の国土を鱗をもった生き物が囲んでいる。

行基菩薩記』なる書が中世には作られており、そこには、行基菩薩が<日本>を遍歴して田畠の開墾を成し遂げたこと、そうした行基菩薩の<日本>遍歴によって国境が定められたこと、その結果としてできあがった<日本国>を、行基菩薩が図化したところ、その<かたち>は独鈷の形をしていたことが語られているのである。

これが行基式日本図と呼ばれる日本図である。地図と呼ぶよりは日本そのものの認識をしめした図である。「独鈷」というのは密教の法具であり、日本の聖なる形をしめすものであった。

伊能忠敬は、五十歳で隠居して天文学を学び、五十六歳で思い立ち、以来十七年間足で歩いて測量をし、日本地図を作成する。はじめに歩いたのは深川から浅草までの近所だった。人工衛星から撮られた国土を知っている眼で見ても、この地図の正確さには驚かされる。すると、行基式日本図のような測量で描かれていなかった時代の地図は、まだ稚拙なものに見えてしまうかも知れないが、実はそこに「国土」とはどういうものであるかという思考の骨組みがそのまま表されている。それが肝心である。

金沢文庫行基式日本図が描かれたのは、元寇の後、外からの力による進入に対する国防意識がたかまったころである。そして日本の国土を守るように、龍がすっぽりと国土を囲んでいる。そんな空間のなかに日本が生きていた。


編集国家であることはいまも変わらない。正月には初詣、おせち料理を食べ、バレンタインデーにワクワクし、ひな祭り、お盆に墓参りをし、打ち上げ花火に興じ、冬にはクリスマス。こんな年中行事を仕立てながら、日本という形をつくっている。龍だっていまだにそこかしこに隠れている。

だが、そっとしのばせておいたはずの数々の事物を、このごろはひきだすのが難しくなっている。もう一枚皮をめくれば現れるはずの事物が、プラスティックのような皮に封印されてしまっている。少し日本に向かってみたい。


さて、そんな世界の淵で龍と戯れる日本には、イエスの【危機】を。ピンクフロイドの【狂気】、エマーソン、レイク&パーマーの【恐怖の頭脳改革】に並ぶ傑作。アンコールのように奏でられる【SIBERIAN KHATRU】はまるで龍の踊りのよう。


龍は想像の王国にこそ棲み、地上を見つめる。

『日本人と遠近法』(諏訪春雄) 〜 【YELLOW】(Guo Feng)

日本人と遠近法 (ちくま新書)

日本人と遠近法 (ちくま新書)


人ははたして光学的生き物であるのか。


街中を歩いていても、遠くの鳥の声がやけに近くで響いたり、喫茶店の隣のテーブルの女子学生の声がやけに遠くに感じたりもする。遠くを歩いている友人をふと見つけたり、隣人とすれ違っても気づかなかったりもする。

たしかに網膜上では遠くのモノは小さな像に、近くのものは大きな像に結ばれる。だが、そこに「見る」という行為がかかわり、それらの像が認識・解釈されると、それに応じて像と像との関係が再構成される。急いでいるときはいつもの道が長く感じたり、愉しいお喋りをしていると時間が短く感じられる。これが生きている空間の世界である。

バリ島の絵画を見ていると、つい浮世絵を思い出してしまう。平面的でありながら躍動感があり、ここかしこで事物が踊り出す。この感覚は空気遠近法では到底描けない。遠近法は、空間の認識・風土・文化と密接な関係にある。


中国はいつも山とともにあった。人が生れるはるか前、そしておそらくは人が滅ぶはるか後までそこに立ち続ける山である。山に抱かれ、山に分け入りながらその遠近をつかんでいく。

遠近法をまったくしらなかった中国美術は唐代の山水画になって固有の遠近法をもつようになった。遠景を上に近景を舌にえがく上下法、山を大きく、樹木、馬、人としだいに小さくえがく「丈山・尺樹・寸馬・分人」の法、さらに高遠・深遠・平遠からなる三遠の法などである。これらはいずれも山水画の世界で発達し、しかもその根本の基準はつねに山があった。ことばをかえれば、画家たちは山に視点を固定して、山との関係から山以外の対象の大小遠近がきめられてゆく。このように山を基準としてきめられた遠近法の典型が、中国美術史が最後に獲得した遠近法の三遠であった。

十一世紀に宋の郭熙(かくき)は『林泉高致』で三遠を説く。

山に三遠あり。山の下より山巓を仰ぎ見たるを高遠と曰ふ。山の前より山の後ろを窺いたるを深遠と曰ふ。近き山より遠き山を望みたるを平遠と曰ふ。高遠の勢は突兀。深遠の意は重畳。平遠の致は冲融にして縹緲。

ここでは仰視する視線(高遠)、水平視する視線(平遠)、俯瞰する視線(深遠)が同居する。「ひとつの眼」が一度にこれらの視線を同時にもつことはできない。だがこころのなかの風景はいつもこれらの視線が同居している。まさにこころのまま、である。この三遠は禅林文化を通して日本に入り、さらに水墨画から障屏画まで日本をつつみこんでいく。

進化論的な視線をもってしまうと、バリ島の絵画や日本の浮世絵がまだ光学に適わない未熟なもの、と見てしまいがちだがそんなことはない。「ひとつの眼」に縛られることなく、自在に視線をはたらかせてこころのなかにあらわれる風景をそっと引き出す。これはごく自然な振る舞いである。

ただ、中国の山と日本の山は決定的な違いがある。中国では巨大な山に呑みこまれるが、日本では山と山が影をなして折り重なっていく。新幹線で都会から山間部にさしかかると、きまって山の影に惚れ惚れしてしまう。近くの山が濃い藍色。そこから少しずつ薄くなりながら影が重なっていく。自分がどうしてこんな風景に見とれてしまうのかわからないが、おそらくは日本の母型ともいうべきところに書かれているのだろう。

日本では、重ねあわせることで奥行きを生みだしていく。芝居の書割も、のぞきからくりも、襖絵もみな重ねあわせていく。この「重ね」と「三遠」が見事なまでにひとつになって日本的空間認識の模様が出来あがる。都会の端正なバーより、どこか歪な酒場に足が向いてしまうのも、案外こんなところに理由があるのかも知れない。こころの座り心地の問題だ。

金子務は、『らせん認識の東西』でこう指摘する。

日本人が明確ならせん構造をもつねじに出会ったのは、おそらく鉄砲伝来の1543年のことだとされる。ねじの形に途方に暮れた職人の一人は、ある日先の折れた小刀で大根をくり抜くとそこにねじ型ができることに気づいた、という伝承が残っている。ねじは苦労の末、作れるようになったが、ねじの機能の分析はただちには生れなかった。幕末にかけて二重らせん構造の御堂も建てられ、江戸初期にはらせんポンプすら佐渡金山その他で使われていたにもかかわらず、ねじ―らせん怪談―らせんポンプをつなぐ根本的ならせんの機能解析は、ついに日本や東洋では生れなかったのである。(『らせん認識の東西』金子務)

金子は、「らせんというかたちの認識は、物理学的な近代科学というディシプリンの成立の鍵をなす」と指摘した上で、そのらせん認識の違いが、ねじを中心とする西洋の「締めつけ文化」vs.木造継手に代表される東洋の「嵌めこみ文化」という技術風土の差をもたらすとする。胸のすくような指摘だ。

おそらく「らせんというかたちの認識」は、空間認識にはじまっている。「山水画にねじ」がしっくりこなくとも「最後の晩餐にねじ」がどこかしっくりしてしまうのも、「ねじ」が空間認識を呼びこんでいるからだろう。一枚、また一枚と皮を重ねるように空間を構成していく中国や日本と、手前から奥までひとつの光の空間として構成される西洋との文化・風土的な差がはたらいている。セル画を重ねていくアニメーションが日本で爆発的に成長したのも、山水画と同じ空間構成法が生きているからだろう。そしてそれが日本が「らせんというかたちの認識」に向かえなかった理由に思える。


近代科学は、螺旋という世界認識モデルをもたらした。だがそれは世界が螺旋で出来ていることを示すものではない。世界を「螺旋」でこころに刻むもよし、「重ね」でこころにしまうもよし。これは世界を認識する方法である。人は方法をこころに持つ一者である。


いま気になっていることがある。三次元グラフィックスを使ったインターフェースなのだが、みな揃って綺麗な透視図法である。たしかに綺麗ではあるのだが、どこか味気なく、窮屈に思えてしまう。そろそろ物理的世界の姿にインターフェースをもとめるよりも、こころのカタチにインターフェースをもとめる頃合ではないだろうか。こころをこそ持ちだすべきなのである。


さて、山水的世界にはGuo Fengの【YELLOW】を。四川省生れの彼の音楽はポップな山水画を思わせる。天安門事件からおよそ一年、まだ緊張と中国的不安が漂うなかレコーディングされる。いくつもの視線が交錯して中国的空間が生れる。


あっちもこっちもここもそこもみなこころのなか、であるかな。