『植物知識』(牧野富太郎) 〜 【月の光】(ドビュッシー、シンセサイザー:富田勲)

植物知識 (講談社学術文庫)

植物知識 (講談社学術文庫)


花がなければつまらない。


小学生のころ、図書館でのお気に入りはSFと牧野富太郎の『植物図鑑』だった。他の図鑑はおよそ写真だったのだが、これは丁寧なドローイングで描かれていた。その夢とも現実ともつかない「植物というもの」にすっかりひきこまれていた。そして世界の半分は植物で出来ていると確信した。花がなければ世界から色が消え失せてしまうのだ。

牧野富太郎は、文久ニ年(一八六ニ年)四月二十四日、高知の造り酒屋に生れる。ロンドンで万国博覧会が開催され、ヴィクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』を発表した年。前年にはハーバード大学図書館に閲覧者用カードがつくられ、一八六三年にはロンドンに世界初の地下鉄が走り、ジュール・ベルヌが『地底旅行』を発表する。

牧野が生れた年のあたりで、時代が静かに「近代」に入れ替わっていく。近代は鉄と電気と情報で組み立てられた。世界の目録を作ってあまねくすべてを俯瞰し、世界をひとつの鍬で開墾しはじめた年だった。ロンドンの万国博覧会ハーバード大学図書館の閲覧者用カードも、世界の目録そのものだった。牧野はそんな時代を吸いこんで生きていた。

牧野は十七歳で上京するが、そのころはもうすでに植物に興味を持っていた。明治十七年、二十二歳の牧野は幸運にも東京大学理学部の矢田部教授のもとに入ることができるようになる。学生でも教員でもなかったのだが、牧野の学力をかわれてのことだったらしい。牧野は大学の図書館からすべて自由に利用できるようになる。だが数年後に牧野はクビになってしまう。部外者が自由に出入りするのはけしからん、ということもあるのだが、なによりも矢田部教授との関係がうまくいかなかったことに端を発するらしい。

牧野が二十七歳ではじめて見つけた新種に「ヤマトグサ」と命名。当時は名前のわからない植物を「発見」しても、その名前を調べるのが大変だった。外国の書物や雑誌に出ている植物を調べるのだが、それでもわからなければ、外国の専門家に鑑定を依頼することになる。だが、牧野は自分で命名・発表してみせた。以後2500種にわたり命名、採集した標本50万点。植物学の父といわれる所以である。

われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎(かこ)つであろう。花のために一掬(いっきく)の涙があってもよいではないか。

牧野富太郎は、全身から植物のダンディズムを放っていた。ダンディズムを放つためにはなによりも頑固で、なによりも優しくなければならない。

去(い)ぬは憂し散るを見果んかきつばた

牧野が広島県安芸の八幡村で広さ数百メートルにわたるカキツバタの野生群落に出逢ったときの歌。

そしてスミレ。

花が開いていると、たちまち蜜蜂のごとき昆虫の訪問がある。それは花の後ろにある距の中の蜜を吸いに来たお客様である。さっそく自分の頭を花中へ突き入れる。そしてその嘴を距の中へ突き込むと、その距の中に二つの梃子のようなものが出ていてそれに触れる。この梃子のようなものは、五雄蕊(ゆうずい)中の下のニ雄蕊から突き出たもので、昆虫の嘴がこれに触れてそれを動かすために、雄蕊の葯(やく)が動き、その葯からさらさらとした油気のない花粉が落ちて来て、昆虫の毛のあつ頭へ降りかかる。

先日、近くの小学校の図書館で蔵書整理で破棄される本を幾冊かわけてもらった。そのなかに『植物図鑑』が入っていた。久し振りのご対面となったのだが、ほとんど傷んでいない図鑑を見ると少々複雑な思いになる。

植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、且つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然の賜物である。実にこれは人生の至宝であると言っても、けっして溢言ではないのであろう。


敬愛なる牧野先生には、ドビュッシーの【月の光】(シンセサイザー富田勲)を贈りたい。遠くから月夜に浮ぶ花の囁きが聞こえてくる。


月の光は植物を照らす灯りである。