『麺麭の略取』(クロポトキン) 〜 【サマータイム】(マッコイ・タイナー・トリオ)

麺麭の略取 (岩波文庫 青 125-3)

麺麭の略取 (岩波文庫 青 125-3)


麺麭よ、革命が要する所の者は実に麺麭である!


「麺麭」(パン)こそはアナキズムの絶対の象徴だった。クロポトキン産業革命による機械の登場と機械の未来を見つめていた。人を社会的呪縛から解放する機械の姿を見ていた。

米国の大原野では、僅かに百名ばかりの人が、有力な器械の助を仮りて二三ヶ月働けば、優に一万人の多数を一ヶ年支へ得る程の小麦を産することが出来る。

ここに出発点があった。このように僅かな労力で大量に生産された食物を平等に分配することが出来れば、食物の不足の問題は解決できる。衣の問題も住の問題も同じように解決できる。平等に分配するか、自由に流通するか、十九世紀は揺れていた。十八世紀は「王」にかわり「市民」が社会の主役に踊りでた時代であった。そして産業革命で現れた機械は、はたして「王」なのか「市民」なのか。

「富」を平等に分配する仕組みさえ確立してしまえば、もはや「王」を代行する「政府」は必要なかった。これが無政府主義の発端である。ナイーブなリアリストである。


この「麺麭」とはいかなるものなのか。私的所有から離れているから平等に分配することのできる公共の産物である。日本ではこのような領域を「世間」と呼び、大陸では「江湖」と呼んでいた。禅林の僧たちも「江湖僧」と呼ばれていた。外交や文化戦略を担う公僕であったのである。

まだ、インターネットがさほど普及していなかったころ、作者が著作権を「放棄」して誰もが自由に利用できる「パブリック・ドメイン・ソフトウエア」(PDS)が賑わっていた。ソフトといえばそれは高価な時代であったので、重宝したものである。まずは人づてに入手を試み、それがかなわないときは秋葉原のショップへ出かけ、フロッピーを購入してPDSをコピーして帰る、という按配だった。

だが、PC/インターネットが社会に普及しはじめると、この仕組みがうまく働かなくなる。コピーされたPDSが改変され、名前も変えられて商品として販売されてしまう。エディタやゲームはこの格好のターゲットであった。これに業を煮やしたリチャード・ストールマン著作権を放棄せず、著作権を保持したまま流通させるコピーレフト運動をはじめる。そしてもともとはパブリックであったはずのUNIXが商用化されるにおよび、このシステムをGNUGNU is Not Unix)としてコピーレフトで製作しては流通させた。これを彼は「フリー・ソフトウエア」と呼んでみせた。もちろんこの「自由」とは「利用する自由」「改変する自由」「配布する自由」の三本の自由である。

これが大事な分岐点だった。デジタルという領域のなかに公共財を置く方法を生み出されると、これがもとになりやがてオープンソースが生れ、また出版・音楽サイドからはローレンス・レッシグ教授率いるクリエイティブ・コモンズが公共的なライセンス制度を体系化する。彼らもナイーブな国の住人である。

いまではワープロ表計算からエディタ、メール、ブラウザ、ペイント&レタッチ、ゲーム、プログラム開発環境にいたるまで、あらゆる場面に必要な道具がネットで自由に手に入る。

文明社会に於ては、総ての事物が相錯綜して居る、全体を変革せずして、何れの部分をも改良することは出来ぬ。故に吾人一日、或私有財産に打撃を加ふるの時は、其財産が土地か工業か何等の形式の下に在るにもせよ、吾人は総ての私有財産を攻撃せねばならぬこととなる。革命の真個の成功は之を要求するのである。

クロポトキン幸徳秋水も時代の風を受け、あまりに走りすぎた。なによりも機械の圧倒が彼らを走らせた。「私」の事情などとうに捨てていた。だが彼らが投げかけたもうひとつの問題、「公共性の行方」がいまインターネットでは重要な問題となる。インターネットは、いままさに建築がはじまったばかりなのである。だからこそ「麺麭」に眼を向けておきたい。


さて、ナイーブなアナキズムにはマッコイ・タイナー・トリオの【サマータイム】を。少し埃っぽい抒情が心を癒してくれる。


ナイーブなアナキズムは誰のこころのうちにもある。