『感性の起源』(都甲潔) 〜 【Love Warriors】(TUCK&PATTI)

感性の起源―ヒトはなぜ苦いものが好きになったか (中公新書)

感性の起源―ヒトはなぜ苦いものが好きになったか (中公新書)


感性にだって起源がある。


感性というとあたかもはじめからすべて揃っているもののような気がしてしまうが、そんなことはない。感覚といっても様々である。熱い・冷たい、苦い・辛い・甘い、臭いなどの生理に直結した感覚から視覚や聴覚もある。おそらくは生命が粘菌のようであったころから生理に直結する感覚が磨かれ、そこに視覚や聴覚が加えられていく、というシナリオだったのだろう。

粘菌も知能をもっているというと眉唾であるが、粘菌も感覚をもっているというとはさもありなんと思う。北海道大学の中恒俊之・上田哲男の研究によるとこんなことがある。

粘菌を迷路にまんべんなく入れる。要するに、曲がりくねった迷路に粘菌をばらまくのだ。「水は方円の器に随う」がごとく粘菌も迷路の形となる。そして二つの入り口にエサを置く。そうすると、エサのない袋小路に入った無駄な粘菌は小さくなり、やがてこのエサの二カ所をつなぐ経路だけに粘菌が残る。しかも、それはなんと二カ所を結ぶ最短距離なのだ。粘菌は、コンピュータの分野ではよく知られた迷路問題を解くことができるのである。

そう、感覚を積みあげるだけでも「問題」を解くことができる。もっとも粘菌には「問題」という意識はないだろうが。このような「生理的」な感覚は、生命誕生のおそらく初期に誕生したと考えられる。視覚や聴覚はおそらくは広い場所で群れをなして生活しはじめたころに加えられたのだろう。

視覚や聴覚は遠くの情報を素早くつかむことができる。加えて「音」に注目すべきなのは、音は聞くと同時に発する(喋る)ことができるという点である。入出力を同時に進めるのはコミュニケーションの基本である。

さらに「言葉」は音から「内語」に変換され、「内語」によって世界を認識するためのモデル(世界モデル)がつくられ、話を聞きながら考え話すということをスムースに進められる仕組みが準備されている。なかなかに巧みな戦略である。

また感覚は、それぞれの感覚器からひきおこされる感覚で完結しない。それぞれの感覚が積み重ねられ、あるときは感覚を参照する感覚が付け加えられ、「感覚」が自己組織化していく。このような感覚の代表的なものに「時間感覚」「空間感覚」「心の感覚」「世界感覚」などがある。これらをひっくるめてひとつの感覚が形成され、これが「自分という感覚」を形成していく。

人はなぜ立ち上がったのか。木から木へ移る行動がそのまま地では「立つ」という行為になったという説や、月が地球から遠ざかったとき思わず立ち上がったなど様々な説がある。おおかた外の環境変化によるとするものが大半である。だが、人の感覚が育っていく様を見ていると、四六時中地に接触して生理的感覚を励起する足裏から脳をできるだけ遠ざけようとする意図を感じる。

この感覚の世界はまだ十分に研究されていない。物理学でも生物学でも脳科学でも心理学でも不十分である。それぞれの感覚については感覚器に近い感覚はそのメカニズムがあきらかになってきているが、なぜ「自分という感覚」が生まれるかについてはあまりに寡黙である。感覚を足しあわせるように、掛けあわせるように「統合」に焦点をあてても的外れとなる。感覚は積み重なるばかりでなく、あらたな参照構造まで生みながら自己組織化をひきおこし、ひとつの感覚を織りなしていく。

「五感」という思いこみも良くない。あらゆる「感じ」が五感のいずれかに帰着できそうな「感じ」を生んでしまう。だか「感じ」は分割して理解できる代物ではない。感覚のオーケストレーションがあの「感じ」を生む。個々の楽器よりもスコアにこそ注目したい。

およそ人の情報処理というものは、コンピュータとはまったく別の原理が働いている。ひとつが「まるごとパターンマッチング」、そしてもうひとつが「感覚による色づけ(重みづけ)」である。この戦略があるからこそ時事刻々と変化する世界のなかで溺れることもなく、瞬時に世界に寄り添っていける。感性の起源をさぐっていくと、人という生命の戦略が見えてくる。

いま、人の感性が鈍りつつあるのでは、という指摘がある。食べ物の匂いや味に鈍くなり、ファーストフードのようなある標準感覚に落ち着こうとしたり、人を思いやるまえに傷つけてしまったり、言葉から味わいが抜け落ちたり、流行歌もベストセラー小説もどこかどれでも同じ規格品の匂いがしたり、と枚挙にいとまない。もちろん、世界は味気無く、けだるく、意味のない場所へと変わっていく。だが、実は「味気無く、けだるく、意味のない場所へと変わっていく」のは、世界ではなく自分である。ここに感覚の一大事がある。


本の後半の「エントロピー文明」「エネルギー文明」はいただけない。もちろん繊細に感覚を使い分けて世界とつきあう方法もあれば、感覚が楽にはたらくように世界を作りかえてしまう方法もある。おそらくこれは鈴木秀夫が指摘するように、「森林」という環境と「砂漠」という環境の差異がはたらいている。むしろ環境の違いによる感覚器育成の基本戦略の差があると見るべきだろう。


さて、感覚から感性に思いをはせる夜には、TUCK&PATTIの【Love Warriors】を。世界のなかで指を震わし、息を震わし、ギターとヴォーカルのデュオがこころをドライブしていく。このPATTI CATHCARTのヴォーカルはビリー・ホリデイ以来だ、と内心思っている。

いつだか、このふたりが井の頭公園でガーデン・コンサートを行った。龍安寺でDVDを撮る企画があり、その合間をぬってのコンサートを開く予定が会場の都合でキャンセル、それならどこかのガーデンで、ということから急遽井の頭公園でのコンサートとなった。観客は百名ほどか、ビール片手に開け放たれた窓。外では鳥の鳴き声や噴水の音がしている。そのなかではじまる音楽会。数メートルのところで歌う様は圧巻。まさに森からやってきたマレビト。【Over the Rainbow】は、TUCKの指先から虹がこぼれているような気がした。武満徹の編曲よりずっとギターが自由でスリリング。


はて、世界の迷路のなかはどんな味?