『共在感覚』(木村大治) 〜 【密林のポリフォニー イトゥリ森ピグミーの音楽】(JVC)

共在感覚―アフリカの二つの社会における言語的相互行為から

共在感覚―アフリカの二つの社会における言語的相互行為から


人と話をする。

このあたりまえのことがどうして出来るのか。話をしているとき、たしかに相手と「同じ空間」を共有しているような気がする。物理的にこのような空間が成立しているとは考えにくい。このような「空間」はいったいどこから出来してくるのか。このような「感覚」がどうしてあるのか。これがなかなか答えられない。

コミュニケーション論ともなるとよく「お互いにコンテキストを共有している」などとさらっと言うが、「どのようにしてコンテキストが共有されるか」が肝心だ。だがこの「そんな感じがする」という領域が「学問的」に敬遠されてしまう。主観が入りこむという思いこみからだろうか。


京都大学の木村大治は、ザイールのボンガンド族の「ボナンゴ」と呼ばれる不可思議な発話を調査する。誰もいない広場で、誰に向かって話すのでもなく延々と話し続ける「投擲敵発話」である。

話し手は普通、広い庭の中ほどに立って、大きな身振りとともに声高に語る。その語り方は、通常の会話とは違った独特のもので、文と文の間に一秒以上の長い沈黙が頻繁にはさまれる。声はよく響き、条件がよければ二〇〇メートルほども離れた場所まで届く。長さはさまざまだが、長いものは二〇〜三〇分にわたって続く。

たまたま広場を人が横切っても、まるで誰もいないかのように通りすぎていく。一向に会話が成立しているふしはない。会話も成立していないのに、いったい誰に向かって、何のために発話し続けているのだろうか。

木村大治はここに「共在感覚」をみた。自分の気の向くままに発話する。なにかを伝えなくてはいけない演説ではない。自分の発話で空間を満たしていくことで、自分が社会のただなかにいることを感じる。また誰かが声をあげる。自分と会話しているわけではないが、同じように自分の発話で空間を満たし、社会のなかにいる自分を確認する。これが「共在感覚」である。

おそらくはこの「共在感覚」が、いま話をしている空間などを「共有している感覚」を生みだすもとになっている。この感覚があるからこそ、さらに話を続け、コミュニケーションを成立させることができる。共有は先に成立しない。共有という状態は共在感覚の事後に生起する。


ピグミーにも似たような投擲敵発話・発話重複が見られる。ピグミーの場合は同時に発話しはじめる。木村はバカピグミーの例を報告する。

会話の様子をじっと見ていると、そこにときおり、最初にバカの歌と踊りを見た時に感じた、にぎやかさが顔を出すことに気づいた。会話がはずみはじめると、各人の発話はわらわらと一時に重複して発せられるのである。われわれの社会においては、発話が重複した場合、その状態が延々と続くということはまずない。普通はただちに、どちらか一方(あるいは双方)が話すのをやめ、発話権をゆずりあうことになる。しかしバカたちは平然と、というよりむしろ積極的に、発話を重ね合わせているように見えた。

あるときピグミーの女たちは、同じ小屋のなかで同時に発話をはじめる。だが、何かについて話し合ったり、お喋りを愉しんでいるわけではない。それぞれが勝手に話しをしている。内容を追っても何もかみ合っていない。この発話を続ける。これもザイールのボンガンド族と同様の投擲敵発話である。これがピグミーの社会を築く礎となる。

ピグミーは遠くエジプトの記録にも出てくる。かれらは森に棲み、雨季になると雨を逃れるように周辺の部族のもとに棲む。そして雨季が終わると、また森に帰っていく。ピグミーは古来より「森の小人」と呼ばれていた。ピグミーは美しいポリフォニーで知られる。別に「音楽」を習っているわけではないが、美しいハーモニーを奏でる。誰かが歌いだすと、自然に他の声部が重なっていく。ピタゴラスが音楽を神の言葉として体系化する以前に、ピグミーは歌っていた。だがピグミーは楽譜はおろか文字をもたない。それどころか固有の言語すらもたず、雨季に避難する周辺部族の言語を流用した言葉を話す。歌は口伝えで伝えられていく。

おそらくはピグミーのこのポリフォニーギリシャに入っていく。そしてそれがギリシャの古典音楽の骨格をなしていく。そしてそれが後世再発掘され、「音楽」的再構成がなされ、「音楽」として世界にひろまっていく。するとピグミーのポリフォニーは人の音楽の原型ということもできそうだ。

余談ではあるが、言語にはピッチ・アクセント(抑揚)系の言語とストレス・アクセント(強弱)系の言語がある。日本語はピッチ・アクセント系、英語はストレス・アクセント系である。「ロボットらしいお喋り」を日本語でつくるには、まるでガイジンが話すように単語を区切りながら抑揚をおさえて強弱をつければよい。おおかたの日本人はこれで「ロボット」や「機械」が話していると想像する。

古代ギリシャ語もピッチアクセントであった。吟遊詩人はこの抑揚をたくみに配置しながら美しい「詩」をつくり、うたう。詩を語ることと歌の区別はどこにもない。古代ギリシャ語はおよそ四つのピッチでできていて、それを組み合わせることでオクターブを、スケールをつくっていく。テトラコードの起源もこのピッチにある。

ピッチ・アクセント系の言語の分布を拾っていくと、その起源が森に集中する。おそらくは、鳥の声、風と葉の音、獣の声、水の音など様々な音で満たされている空間で音によってやりとりをするためには「音に抑揚をつける」が残ったのだろう。いくら強弱をつけても森のなかではその変化はかき消されてしまう。「同じ音」の抑揚の変化のほうが聞き分けられる。

そしてこのピッチ・アクセント系の言語と投擲的発話が重なると、ポリフォニーの生れる契機となる。むかし、合唱をしていたがひとつのハーモニーが生れる瞬間はたまらない。まるで天から降ってくるように、ハーモニーが来臨する。そのとき自分とハーモニーがそのままに溶けあう。そしてその場の人たちがひとつのハーモニーを同時に体験する。この感覚は共在感覚そのもので、ひとつのハーモニーを共有する。つまり、「あるもの」を契機に同時に共在感覚を生むと、それぞれが「あるもの」を共有している感覚を持つ。

コミュニケーションもこの共在感覚があるからこそ成立する。たがいに話をしている空間を共有し、話をしている事柄・モデルを共有する。その積み重ねがコンテキストの共有につながっていく。コンサートで「ヒロミー!」などと叫ぶのも、社会から隔絶された人が雑踏のなかを大声で喋りながら歩くのも、葬式で大声で泣く泣き女も、同じ共在感覚からはじまっている。ボンガンドやピグミー固有の感覚ではない。誰もがもっていながら見えにくくなっている感覚を、かれらが原初的に示している。


言葉というのは実に巧みな戦略である。コミュニケーションからこころの形成までシームレスにつながっている。だからこそ、ユングが指摘する「元型」だってこぼれてくる。「心脳問題」も「生得的文法(構造)」も降ってくる。もうすでに人の社会は言葉で満たされている。誰もが同じ「言葉」を話すという一事をとっても驚きである。

この「言葉」が成立する契機に「共在感覚」があると見る。そしてこの「共在感覚」はおそらくは自分の「外」との共在にとどまらず、異なる感覚をたばねる共在や、昨日の自分と今日の自分が同じ自分であるという共在など、人間という構造のあらゆる場面ではたらいていることが予想される。


やはりここでは【密林のポリフォニー イトゥリ森ピグミーの音楽】を聴きたい。これは1983年にザイール共和国のイトゥリ森で大橋力によって録音されたもの。先日大橋さんのスタジオを訪れたときは、まだ録ってきたばかりという密林の音をハイパーソニックで聴かせていただいた。ここかしこで神々の呟く音がどこまでもひろがりながらすべて自分のなかにすっぽりおさまってしまう、そんな不思議な体験だった。


物理と抽象のあいだには感覚がある。近代という時代はあまりに物理と抽象が直結してしまった時代であるが、そろそろ感覚から世界を眺めてみたらどうか。


世界はとても感じやすいもの。