『ネオテニー』(A・モンターギュ) 〜 【ロックンロール】(ジョン・レノン)

ネオテニー―新しい人間進化論 (自然誌選書)

ネオテニー―新しい人間進化論 (自然誌選書)


近ごろ、思うように絵が描けない。


五年ほど前の朝、テレビを見ていてぎょっとした。どこかの山村の小学校をテレビで紹介していた。その小学校は創立以来のこどもの描いた絵がすべて保管されていて、その朝、テレビ番組のために体育館の床一面にすべての絵を年代順に並べていた。新しい方から古いほうへと順に眼をやると、あきらかにだんだん絵がうまくなっていく。落書きのような稚拙な表現が、しだいに描写する絵へと変わっていくのである。これを見たとき、モンターギュにやられた、と思った。

ヒトほど複雑な生き物になると、馬などのように生まれてすぐ立ち上がることも出来なければ、すぐ喋ることもできない。ヒトとして一人前になるには、それだけの準備期間が必要になる。だが母体ですべてを準備することはできない。そこで未成熟のまま産まれ、こどもの期間に学び、成年になって独立する。だからヒトが複雑になればなるほど、こどもでいる期間が長くなる。つまり幼形のまま成熟していくことになる。人の成年の頭蓋骨は、成年のチンパンジーの頭蓋骨より幼年の頭蓋骨に似ている。この進化の模様をネオテニー幼形成熟)と呼ぶ。またはペドモルフォシス(幼形進化)と呼ぶ。

珈琲をすするサナギたちで街がみたされていくわけだ。

ピンナップ・ガールから典型的なハリウッドの女優にいたるまで、すべてこの人気のある顔をまねた。美しさにたいするこのかたよった好みは、一九三〇年代にはやった「ベビー・フェイス」という歌のなかでもまつりあげられている。このような"美しい"女性たちは、男たちが"ベーブ"または"ベビイ"とよぶネオテニー化した"赤ちゃん"といえる。"ベーブ"とか"ベビイ"とかは、小さいものや愛すべきもの、あるいはその両者にむかっての、愛情をこめた言葉つまり愛称であって、それは多くの言語圏で同様なことがみられるところだ。

加えて最近では大人になりきれない大人、「アダルト・チルドレン」が巷を闊歩したり、犯罪の低年齢化の傾向が報道されたり、皮相な笑いの番組が増えたり、夜半までゲームに興じる大人が急増したり、電車のなかのサラリーマンは漫画雑誌を読み、若年層で幼児言葉のような言い回しが流行したりと、まるでネオテニー化が一挙に加速している風である。

生活空間に眼をむけてもその変貌振りがめざましい。遊園地のような店、遊園地のような商店街、一昔前の子ども部屋のようなリビング、レストランのメニューのこども化など、あげればきりがない。

私たちは、人類の本当の性質について、新しい理解のうえに立たなければならない。そして、社会というものの本質を、再定義しなくてはならない。社会は敵を発明し作りだす機関であるとか、自然や人類のすべてを無条件反射的恐怖のなかにとじこめてしまう機関であるとか、社会は人間の需要を利用したゲームであり帳簿上の価値を生みだす機械にすぎないといった概念を、いまや、私たちは、はねつける必要がある。

進化の事実にもとづけば、社会とは、すべての世代において人類のネオテニー的特徴をはぐくみ伸ばすような養育を行う生活システムであると定義できる。進化からみれば、私たちのネオテニー的で延長された幼年期、つまり一生つづく"若さ"こそ、ただひとつの、もっとも支配的な事実であり、そしてそれにもとづいて、社会と生産関係が設計sれているということがわかるだろう。

いささか近代の気分に流された思考のプロセスであることは否めないが、たしかに生物の進化のための戦略としての幼形化はある。社会というよりは文化と国家が人を育てる器になるのだろう。だからこそ文化は遊びで満ちているのである

だが、いま見られる幼形化は、あまりにタガがはずれすぎてはいないか。すべてをネオテニーに理由をもとめようとするのはどうか。ぼくたちはそれほど成熟しているのだろうか。

地域による差もある。農村のこどもと接していつも驚かされるのは、かれらが「大人びて」いることである。もちろん都会のこどもに対してである。都市に住んでいると、たまに離れてビルも何も見えないところに行きたい衝動にかられることがある。過剰な刺激や掴みにくい情報の森のなかで、相手もさだかでないままに表現しなければならないこともままある。兎も角疲れてしまう。感覚器や運動機能が自分から離れてバラバラになってしまうような気分に襲われることもある。そんな生物的なストレスが都市にはある。

人が組み立てた都市という人工空間は、人の感覚を設計できなかった。欲望を形にした玩具で空間をいっぱいに埋めつくした。自然は人を育ててくれたが、都市は人を育ててはくれなかった。本来育つはずの感覚も宙ぶらりんに、十分考えることもできぬままに、なんとなく気の向くままに活動する。感覚もを十分に磨けぬまま、世界を認識するためのこころの世界モデルも中途で放りだされ、表現も意識することなく身体を動かしてしまう。時間の隙間に忘れさられたこどものようである。

ネオテニーの場合、生物が進化の過程で戦略的に幼形化を選択するが、いま見られる幼形化は成熟すべきものが成熟できずにみかけが幼形化するという「幼形未熟」であるのだろう。そう未熟化が進んでいることが問題なのである。

だから、一見ネオテニーがそのままはたらいているかに見える様々な兆候を、そのまま受け取るべきではない。味がしなくなったり、鼻が利かなくなったり、豊かさを感じられなくなったり、考えることがけだるく感じたり、表現することがもどかしくなっていることをこそ見つめるべきである。

たしかに、ネオテニーのはたらきはある。だが、これは週変わりで変わるような急進的なものではない。この分別をしっかりつけたうえで、感じること、考えること、書くことに努力したい。これは生物があたりまえにもつべきリテラシーで、時代に依存する特殊な能力ではない。おいしいお酒を飲み、美しい風景に抱かれながら、夢を語る。こんなあたりまえのことからはじめたい。


いま、都市を中心に世界的に少子高齢化が急速に進んでいる。これは、見方を変えれば、こどもに対して育てる時間と環境を十分に与えられるということでもある。何もさせないで手取り足取り世話をして「大人」の仲間入りをさせてしまうのではなく、遊んで冒険するだけの環境を揃えてやりたい。「コンピュータのリテラシー教育」よりはるかに重要だと思うのであるが。


さて、幼形成熟の大人たちには、ジョン・レノンの【ロックンロール】を。『スタンド・バイ・ミー』なんてまさに今宵にぴったりじゃ御座いませんか。


そういえば、地球幼年期って終ったんでしたっけ?