『透きとおった悪』(ジャン・ボードリヤール) 〜 【黒いワシ】(バルバラ)

透きとおった悪

透きとおった悪


ボードリヤールは感じやすい。


まるで時代に刃を突き立てられるように、ボードリヤールは突然自分の眼の前にやってきた不安を払拭しようと、言葉を並べ立てた。なにかの予感はするのだが、それを言いあてることはできなかった。でも「何か」がおかしかった。それを伝えようと、ボードリヤールはいつにもましてレトリックに走った。核心を伝えられない以上、レトリックに走るしかなかった。発表されたときは「およそボードリヤールらしくない」「まるでSFだ」などと嘲笑された。それでも過剰なレトリックは止まなかった。

革命の終わり、ユートピア、コミュニケーション社会、アンディ・ウォーホル、投機としての芸術、チチョリーナ、マドンナ、マイケル・ジャクソン、株の暴落、虚構の経済、経済学の終わり、エイズ、コンピュータ・ウィルス、シミュレーションの事故、美容整形手術、ジョギング、ドーピング疑惑、人工知能、情報処理型人間、人間学の終わり、バブル・ボーイ、免疫システム、モードの有毒性、アレルギー、宣伝、嫌悪の時代、フーリガンの乱闘、テロルのハイパーリアリズム、ホメイニと『悪魔の詩』、人権と人質、ハイデガーのナチ疑惑、ソ連・東欧の自由化、ニューヨーク、過剰による危険、エコロジーのゆくえ、ペレストロイカ、悪の原理、人工器官、クローン、遺伝情報コード、男性と女性、人種差別、人道主義の混乱、「他者」としての日本、食人種的もてなし、旅について、写真について、尾行、迷宮の罠、ゴンブロヴィッチ、シュニッツラーの寓話、他者の快楽、子どもたちの戦略、ふたたびウォーホル、モノという他者、疎外からぬけ出す方法

ボードリヤールが一度に並べるキーワードが尋常でない。

だがそのキーワードの隙間をボードリヤールが埋めることはない。まるで駆り立てられるように言葉を目眩がするほどに並べていく。おそらくはこの不安感は近代特有のものである。ボードリヤールに限らず、九十年代のエッセイや評論や小説にはこの傾向が強い。二十世紀を目前にした十年とはまるで異なる。あの十年には新しい時代が訪れそうな気分が満ちていたが、この十年は約束されたはずの未来が消失してしまったようなあてどのない不安感が漂っていた。ボードリヤールがこの本を書いたのもこの時代だった。

われわれの社会は、熱狂的なほどソフトになっている。あるいは、ソフトな熱狂につつまれている。呪われた部分を追い出し、肯定的な諸価値の輝きだけしか残さなかったので、われわれは、ちょっとしたウィルス的な攻撃にも、ひどく傷つきやすくなっている。

そしてさらに「われわれは、もはや悪を語ることができない」と続ける。あらゆる空間の隅々に、どこまでも透明になった悪が漂っている。悪は自分と他者として対峙することのできるものではなく、いま吸っている空気そのものにも静かにまぎれている。いつも凶暴であるわけではないのだが、ふとしたはずみに透きとおった悪がうごめきだす。この透きとおった悪はいったいどこからやってきたのか。

他者、それは客人である。

ボードリヤールが言うまでもなく、他者はまたマレビトであった。マレビトはカミであり、大きな福をもたらすかと思うと、大きな災いももたらす。だからおもてなしをする。

隠喩が存在するためには、差異をもつ領野と、他から区別されるモノとが存在していなければならないのだが、あらゆる分野の相互感染はこの可能性に終止符を打つことになるからだ。

どこまでも均質化していく空間においては「他者」はもはや存在しなくなる。差異が消失し、他者がいなくなった空間に透きとおった悪ばかりが顔をもたげるというわけだ。そんなボードリヤールが見ていた他者は「日本」そのものだった。おそらくはボードリヤールの想像を超えた日本である。


近代が生みだした最大の機械は都市である。人工的な膜で結界し、内部で必要なエネルギーを生みだし、外部に排出する。たしかに内部には夢のような生活があるのだが、地球のなかの異様な暗黒空間だった。地球から隔絶された内部構造はもはや外部に放出された空間だった。農村に対して都市があるのではない。都市には対になるような相手が欠けている。

ボードリヤールは都市の外への配慮が足りなかった。このような「均質」な空間はあまりに「都市」に集中している。アポリジニは都市を歩かない。日本は近代になりきれなかった国家であった。そこに遊びも救いもある。

多くの文化は、われわれの文化よりオリジナルな状況をもっている。われわれにとって、すべてはあらかじめ解読可能性だ。われわれはすばらしい分析手段をもっているが、それは状況ではない。われわれは、理論的にはわれわれの固有の出来事のはるかかなたで生きている。深いメランコリーはここから生じる。他のひとびとにとっては、運命の、つまり彼ら自身が直接体験している何ものかの、微光がまだ残っている。だが、この何ものかは、彼らが死のうと生きようと、けっして解読されることはない。われわれは、われわれの世界以外の場所を清算してしまった。

近代的知識人の好みそうな隠喩をつかうなら、都市は「器官なき身体」である。だがそれは都市という自らの風土を忘れてしまった場所の事態である。地球のすべてが都市をめざしているわけではない。それは都市の傲慢である。むしろ二十一世紀は都市ではない何ものかの時代であろう。


やがてボードリヤールの「不安」は的中する。信じたくもない、あまりにリアルな現実がやってくる。二〇〇一年九月十一日のことだった。『透きとおった悪』の出版から十一年後のことだった。


ボードリヤールには、バルバラの【黒いワシ】を。闇を絞った果汁のような歌声のシャンソンバルバラを。一九八一年に出したアルバム【SEULE】は出色だった。どこまでも沈んでいくつぶやきのバルバラだけではなく、裏の路地をスキップする【Monsieur Victor】も収められていた。まさにメランコリアのなかの微光だった。バルバラは一九七七年に六十七歳の生涯を閉じる。日本ではシャンソン畑以外ではほとんど知られていないが、間違いなく二十世紀を代表する歌姫だった。

思い出が 鳥であれば

その羽根で 不可能すり抜け

さしのべた 私の腕に

空を引き裂き 舞い降りるだろうに(バルバラ

近代の、都市のメランコリアは、どこまでも深くなって行く青い闇にひきこまれる郷愁ではなく、なにもないただ暗いばかりの空間に取り残されるメランコリアだったのである。