『本の未来はどうなるか』(歌田明弘) 〜 【教育】(東京事変)


本の本来はどこに向かうのか。


本の未来をさぐる試みが急増している。もちろんウェブの存在が欠かせない。ウェブでは画面に表示された言葉から他のページにジャンプして「本」のなかをたどることができる。この繋がりが「リンク」である。ヴァネヴァー・ブッシュはmemexを構想する。

個人で使う未来のツールについて考えてみよう。そのツールは、機械化された個人用のファイルや書庫のようなものであろう。このツールには名前が必要だが、とりあえずmemexと呼ぶことにする。memexは、自分の本や記録、情報交換のやりとりなどを保存しておける装置で、機械化されているためにきわめて速く、かつ柔軟に参照できるだろう。これは人の記憶を補助する大規模で詳細な装置である。(『As We May Think』ブッシュ、1945)

ブッシュが考えていたのは記憶の拡張である。機械化された記憶装置では、カメラで撮影された書類や手紙や本などがマイクロフィルムにおさめられ、人が操作して記憶をたどる。記憶をたどれるように、ふたつの表示装置を用意して記憶の違いを確認したり、記憶から記憶への移動を記録し、本文と注釈を結びつけたりできる装置を構想した。

このなかで重要な意味を持つのが索引づくりである。同じ記憶の断片に対し、様々な索引をつくることで、様々な知識を引き出したり、様々な記憶のナビゲーションができるようにする。記憶と記憶が結びついて意味をもたらす。この本では言葉こそまだ与えられていなかったが、「ハイパーテキスト」「ハイパーメディア」の概念が書きこまれている。

エッセイとして書かれたこの本が出版されたのは一九四五年七月、広島に原爆が投下される一ヶ月前だった。ブッシュはマンハッタン計画の最高責任者のひとりだった。

一九六五年、ハーバード大学の大学院生だったテッド・ネルソンが、"A File Structure for the Complex, the Changing, and the Indeterminate."という論文のなかで「Hypertext(ハイパーテキスト)」という語を造語する。この年は、人類初の宇宙遊泳が行われ、DECがPDP-8を発売し、ザデーによりファジー理論が提唱され、NHKがハイビジョンの研究を開始した年だった。ローリング・ストーンズが『サティスファクション』を発表し、サイモンとガーファンクルが『サウンド・オブ・サイレンス』のハーモニーを聴かせ、ジュリー・アンドリュースが『サウンド・オブ・ミュージック』で歌声を聞かせたのもこの年である。


現在、インターネットといえば「メール」(コミュニケーション)と「ウエブ」(情報の表示)と言えるが、この「ウェブ」は、一九八九年のティム・バーナーズ・リーらによるWWWプロジェクトにはじまる。はじめはテキストと限られた画像の表示とリンクだけだったが、いまでは複雑な構造の画面を構成したり、動画や音声にいたるまで様々なメディアを同時に扱ったりすることができるまでになっている。リンクや画像などはタグがつけられひとつのテキストのなかに埋めこまれた。

このタグづけされたテキストを表示し、リンクされた情報の断片をたどっていくのがブラウザである。一九九三年二月、NCSA(イリノイ大学国立スーパーコンピュータ応用センター)の大学院生であったマーク・アンドリーセンを中心とするグループによって開発されたモザイク(Mosaic)というXウィンドウ用のブラウザが、いまのブラウザの原型となる。

本の世界においても、書き手は「引用」という形で他人のテキストを利用している。テキストが著者に属すると同時に世界に属するものであるということを、われわれは特別に意識せずともすでに理解している。

さらに、索引というのは、ハイパーテキスト的な読みを許容し、いわば、デジタル時代の誕生を準備していたものだったことに気づく。索引があることによって、われわれは冒頭から読んでいくという本の読み方から解放されているのだ。自分の関心にしたがって、本というまとまりを超えて、多くのテキストを横断的に読むことが可能となっている。こうした読み方は、「リンク」にしたがってテキストを読んでいくハイパーテキスト的な読み方にほかならない。索引は、グーテンベルク文明のなかで育ちながら、「グーテンベルク以後」を示している。

情報には構造と流れがある。本は、情報が展開していく流れとそれを俯瞰したり、情報と情報を結びつける索引や注釈を準備する。これが電子の世界に置き換えられていくとウェブの形になっていくが、誰もがそのなかで「本」の姿をこころにとめておいたはずである。

世界は断片の集積として描かれる。

ウェブは、本を電子化(デジタル化)したばかりでなく、本をネットワークに投げだした。共有される電子空間のなかで同じ「本」を無数の人が同時に見るという事態がはじまった。もはや本はネットワークに溶けだしているようだ。ここまでの流れを見ていると、まるで「本」の未来はネットワークのなかにこそあるように思えてしまうが、事態はそんなに単純ではない。

ウェブがまるで「本」のように読まれることで変わってしまったことがある。「出版/Publishing」である。本を出版するためには、社会的手続きが必要であり、誰もが本を出版できるというものではなかった。だが、ウェブは社会的手続きを抜きにして個人的手続きだけで公開/出版ができてしまう。Blogger.comでは、"Push-Button Publishing"と呼んでいる。

本においては出版と社会化が等価であったのだが、ウェブにおいてはこの等号は成立しない。出版・社会化されて本となって社会を流通していたはずなのだが、ウェブでは出版(公開)されてもそれが社会化されたとはいえない。著作権が必要とされる意味までもが微妙に捩れてしまう。残念ながら、この部分はまだほとんど議論がされていない。


さて、本の本来には、東京事変の【教育】を。椎名林檎の言葉の海に溺れていく現実。

するとこうだ

「何かご不満?ディスプレイは頗る綺麗よ。」

此処まで来て醒める萎える

意図は冗談 稚児の遊戯

縷縷縷縷る超現実主義

不知顔で高飛びしろ!


でも机上に高がアイコン二つ三つ未々嘘

色違いのラベル順に並べ替えてばれぬ本体

本は、人にとってもっとも古いメディアであり、言葉に寄り添いながらいつも人とともに歩んできた。本の未来はウェブではない。本の本来をもう一度考える時期が到来している。
人の情報とのつきあい方、人のことばへの寄り添い方を考えたい。


それが本懐だ。