『マインドストーム』(シーモア・パパート)〜 【イマジン】(ジョン・レノン)

マインドストーム―子供、コンピューター、そして強力なアイデア

マインドストーム―子供、コンピューター、そして強力なアイデア


鳥は不思議である。


空を自由に飛びまわり、木の枝に止まり、ぼくたちよりも饒舌な囀りを聞かせる。メシアンは森に入って森に充満する鳥の歌声を採譜したものだった。飛ぶ姿の美しさと黄金の歌声は、そのまま天の使いを想像させてしまう。中国の皇帝は山の頂きで鳥の声に耳を澄まし、自分の即位が天の意にかなったものであるかどうかを判断する。

飛ぶ鳥の姿はやがて人に飛行機を作らせる。はじめは腕に羽根をつけて一所懸命に羽ばたくというものであったが、動かぬ羽根をひろげジェットエンジンにより落ちる理由を置き去りにしながら飛ぶまでになった。もちろん優雅に羽ばたくことはできない。

別に空を飛んで物資を輸送するために飛行機をつくったのではなかった。鳥にあこがれ、天にあこがれ、兎にも角にも空を飛びたかった。地上から数センチ浮き上がっただけでも、それは天にも昇る気持ちだったのである。猿の惑星でも、どこからかやってきた人間がつくった紙ヒコーキをみて猿たちは目を瞠っていた。

今日多くの学校では、「コンピュータによる学習」というと、コンピュータに子供を教えさせるということを意味する。コンピュータが子供をプログラムするのに使われていると言ってもよい。私の描く世界では、子供がコンピュータをプログラムし、そうする家庭で、最も進んだ協力な科学技術の産物を制御するという実感を得るとともに、科学、数学そして知性のモデルを作る学問などからくる深遠な理念と密接な関係を確立するのである。

もちろん、鳥が飛翔できることには科学的な根拠がある。だが、鳥は科学を学んで空を飛べるようになったわけではない。言葉だって言語学を学んで話せるようになるわけではない。人が学ぶというのはいったいどのようなことなのか。

パパートは子供のころから歯車に極度の関心を示していた。

やがて私は、頭の中で歯車を回転させて、一連の原因と結果を生み出すこともできるようになった。「これがこっちに回るからあれはあっちに回って、だから……」差動式歯車のようなものは特に気に入っていた。これは、二つの車輪にかかる抵抗の違いによって伝導軸の動きが実に多様に車輪へ分配されるため、単純で直接的な原因作用に従わないところが、格別おもしろく思われたのである。組織というものは、固定的、決定的ではなくても充分法則にかない、完全に理解し得るものだということを発見した時の興奮した気持は今も鮮やかに記憶している。

シーモア・パパートは一九二八年南アフリカ生れの数学者、三十歳から五年間ジュネーブの発生認識論センターでピアジェと共同研究する。このとき「子供は、自己の知識構造の積極的な建設者である」というピアジェの見方に触発され、六十年代はじめにMITでマーヴィン・ミンスキーとAI研究のなかで子供の知識獲得の研究を進め、そのなかで「タートル・グラフィックス」として知られるLEGOを開発する。これは現在はLEGO社のMindstormsにいたる。また、アラン・ケイとも共同研究を進め、その成果がSqueakとなって結実する。


子供のこころのなかはいつも春の嵐が吹いている。連綿と続く風に遊び、世界を発見したり、世界に入りこんだりする。パパートのこころのなかにはいつも歯車があった。歯車で世界を考えていた。世界のなかに歯車の軋む音を聞き、歯車の具合を直しながら美しい世界を組み立てていった。だから、そんな世界に遊んだり、世界を測ったり、世界を覗いたりする道具があれば、こころのなかに豊かな世界を建築していけるはず。パパートはそう考えた。


ディスプレイにタートル(かめ)と呼ばれる三角形があらわれる。三角形の頂点が前。前に100進めと指示すれば100進み、50戻れと指示すれば50戻る。右に90度回転と指示すれば右に90度回転する。そしてこのタートルはペンを持っていて、ペンを下ろせと指示すればペンを下ろし、ペンを上げろと指示すればペンをあげる。ペンを下ろしているあいだ、タートルを移動させればその軌跡が描かれるというわけだ。

これはなんでもないことなのだが、子供はプログラムというものによってタートルを動かせることを学び、動かし方(プログラム)を学び、さらに動かすことによって世界にひそむ様々な顔を発見する。概念を見つけ、概念をつかって世界に関わり、世界にかかわることで世界を学ぶ。ここに学びの原型がある。

このように学んでいくためには、こころのなかの世界を建築していくための素材が必要となる。ピアジェはこの素材を準備してやればこどもは自分で学んでいく、と考えた。これが発生認識学の基礎になる。さらにパパートはこの素材こそが文化に準備されている、と考えた。文化と学びは切り離すことができない。


人ななぜ遊ぶのか。なぜ異常とも思えるほどに熱狂してまで遊ぶのか。なぜこどもの時分に多様な遊びにかかわるのか。ここにも学びと同じ人の癖がひそんでいる。


さて、こどもがそのまま巨きくなったようなパパートには、永遠の少年ジョン・レノンの【イマジン】を。こころのカタチが見えてくる。


「遊びをせんとや生れけむ」という一句に世界の一切がうたわれている。