『日本人と遠近法』(諏訪春雄) 〜 【YELLOW】(Guo Feng)

日本人と遠近法 (ちくま新書)

日本人と遠近法 (ちくま新書)


人ははたして光学的生き物であるのか。


街中を歩いていても、遠くの鳥の声がやけに近くで響いたり、喫茶店の隣のテーブルの女子学生の声がやけに遠くに感じたりもする。遠くを歩いている友人をふと見つけたり、隣人とすれ違っても気づかなかったりもする。

たしかに網膜上では遠くのモノは小さな像に、近くのものは大きな像に結ばれる。だが、そこに「見る」という行為がかかわり、それらの像が認識・解釈されると、それに応じて像と像との関係が再構成される。急いでいるときはいつもの道が長く感じたり、愉しいお喋りをしていると時間が短く感じられる。これが生きている空間の世界である。

バリ島の絵画を見ていると、つい浮世絵を思い出してしまう。平面的でありながら躍動感があり、ここかしこで事物が踊り出す。この感覚は空気遠近法では到底描けない。遠近法は、空間の認識・風土・文化と密接な関係にある。


中国はいつも山とともにあった。人が生れるはるか前、そしておそらくは人が滅ぶはるか後までそこに立ち続ける山である。山に抱かれ、山に分け入りながらその遠近をつかんでいく。

遠近法をまったくしらなかった中国美術は唐代の山水画になって固有の遠近法をもつようになった。遠景を上に近景を舌にえがく上下法、山を大きく、樹木、馬、人としだいに小さくえがく「丈山・尺樹・寸馬・分人」の法、さらに高遠・深遠・平遠からなる三遠の法などである。これらはいずれも山水画の世界で発達し、しかもその根本の基準はつねに山があった。ことばをかえれば、画家たちは山に視点を固定して、山との関係から山以外の対象の大小遠近がきめられてゆく。このように山を基準としてきめられた遠近法の典型が、中国美術史が最後に獲得した遠近法の三遠であった。

十一世紀に宋の郭熙(かくき)は『林泉高致』で三遠を説く。

山に三遠あり。山の下より山巓を仰ぎ見たるを高遠と曰ふ。山の前より山の後ろを窺いたるを深遠と曰ふ。近き山より遠き山を望みたるを平遠と曰ふ。高遠の勢は突兀。深遠の意は重畳。平遠の致は冲融にして縹緲。

ここでは仰視する視線(高遠)、水平視する視線(平遠)、俯瞰する視線(深遠)が同居する。「ひとつの眼」が一度にこれらの視線を同時にもつことはできない。だがこころのなかの風景はいつもこれらの視線が同居している。まさにこころのまま、である。この三遠は禅林文化を通して日本に入り、さらに水墨画から障屏画まで日本をつつみこんでいく。

進化論的な視線をもってしまうと、バリ島の絵画や日本の浮世絵がまだ光学に適わない未熟なもの、と見てしまいがちだがそんなことはない。「ひとつの眼」に縛られることなく、自在に視線をはたらかせてこころのなかにあらわれる風景をそっと引き出す。これはごく自然な振る舞いである。

ただ、中国の山と日本の山は決定的な違いがある。中国では巨大な山に呑みこまれるが、日本では山と山が影をなして折り重なっていく。新幹線で都会から山間部にさしかかると、きまって山の影に惚れ惚れしてしまう。近くの山が濃い藍色。そこから少しずつ薄くなりながら影が重なっていく。自分がどうしてこんな風景に見とれてしまうのかわからないが、おそらくは日本の母型ともいうべきところに書かれているのだろう。

日本では、重ねあわせることで奥行きを生みだしていく。芝居の書割も、のぞきからくりも、襖絵もみな重ねあわせていく。この「重ね」と「三遠」が見事なまでにひとつになって日本的空間認識の模様が出来あがる。都会の端正なバーより、どこか歪な酒場に足が向いてしまうのも、案外こんなところに理由があるのかも知れない。こころの座り心地の問題だ。

金子務は、『らせん認識の東西』でこう指摘する。

日本人が明確ならせん構造をもつねじに出会ったのは、おそらく鉄砲伝来の1543年のことだとされる。ねじの形に途方に暮れた職人の一人は、ある日先の折れた小刀で大根をくり抜くとそこにねじ型ができることに気づいた、という伝承が残っている。ねじは苦労の末、作れるようになったが、ねじの機能の分析はただちには生れなかった。幕末にかけて二重らせん構造の御堂も建てられ、江戸初期にはらせんポンプすら佐渡金山その他で使われていたにもかかわらず、ねじ―らせん怪談―らせんポンプをつなぐ根本的ならせんの機能解析は、ついに日本や東洋では生れなかったのである。(『らせん認識の東西』金子務)

金子は、「らせんというかたちの認識は、物理学的な近代科学というディシプリンの成立の鍵をなす」と指摘した上で、そのらせん認識の違いが、ねじを中心とする西洋の「締めつけ文化」vs.木造継手に代表される東洋の「嵌めこみ文化」という技術風土の差をもたらすとする。胸のすくような指摘だ。

おそらく「らせんというかたちの認識」は、空間認識にはじまっている。「山水画にねじ」がしっくりこなくとも「最後の晩餐にねじ」がどこかしっくりしてしまうのも、「ねじ」が空間認識を呼びこんでいるからだろう。一枚、また一枚と皮を重ねるように空間を構成していく中国や日本と、手前から奥までひとつの光の空間として構成される西洋との文化・風土的な差がはたらいている。セル画を重ねていくアニメーションが日本で爆発的に成長したのも、山水画と同じ空間構成法が生きているからだろう。そしてそれが日本が「らせんというかたちの認識」に向かえなかった理由に思える。


近代科学は、螺旋という世界認識モデルをもたらした。だがそれは世界が螺旋で出来ていることを示すものではない。世界を「螺旋」でこころに刻むもよし、「重ね」でこころにしまうもよし。これは世界を認識する方法である。人は方法をこころに持つ一者である。


いま気になっていることがある。三次元グラフィックスを使ったインターフェースなのだが、みな揃って綺麗な透視図法である。たしかに綺麗ではあるのだが、どこか味気なく、窮屈に思えてしまう。そろそろ物理的世界の姿にインターフェースをもとめるよりも、こころのカタチにインターフェースをもとめる頃合ではないだろうか。こころをこそ持ちだすべきなのである。


さて、山水的世界にはGuo Fengの【YELLOW】を。四川省生れの彼の音楽はポップな山水画を思わせる。天安門事件からおよそ一年、まだ緊張と中国的不安が漂うなかレコーディングされる。いくつもの視線が交錯して中国的空間が生れる。


あっちもこっちもここもそこもみなこころのなか、であるかな。