『フラーがぼくたちに話したこと』(B・フラー) 〜 【Children's Songs】(C・コリア)

フラーがぼくたちに話したこと

フラーがぼくたちに話したこと


そう、幾何学が足りない。

この数百年というもの、様々な機械が出現し、ぼくたちのあたまのなかの機械もすっかり整頓され、輝ける都市で夢の近代的生活を送れるようになった。それまでの生活は下の地層にしまいこんでハンバーガー片手に散歩する。夢の生活であるはずだった。だが現実に押し寄せてきたのは、終わりもなく後戻りもできない環境問題、エネルギーや資源をめぐる対立、文化の摩擦熱。

だれもが近代的科学者をめざそうとしていた時代、フラーがめざしていたのは名も無い人間。こどものころから世界に抱く疑問符を考えつづけ、やがてシナジェティクスに結実する。宇宙は小さな三角形が響きあいながら生きている。フラーは三角形を組み立ててドームに仕立てる。ジオデシック・ドームで、もっとも小さな表面積で最大の空間を生むことができる。測候所のレーダーを蓋ったり、世界最大級の植物園の基本構造に用いられたりする。

フラーに寄り添ったのはフラワーチルドレンたちだった。どこにでも組み立て可能なドームは、放浪し自然のなかに居を構える彼らのライフスタイルにぴったりだった。フラーはなんの躊躇もなく彼らのもとへ出掛け、組み立ての指導までする。やがて彼らのなかからカウンター・カルチャーが育ち、いまの環境運動にまで連なっていく。そんななかでフラーは『宇宙船地球号操縦マニュアル』を書く。どのように地球を操縦していけばよいかを明かす。

そんなフラーが自宅のダイニングにこどもたちを招き、自分が発見した幾何学を語る。

私は地球の表面に三角形を描けば、それは地球を2つの領域に分けたことになるということを発見した。三角形の内側の領域は、3つの角と3つの辺で閉じられた線でかこまれた領域として定義できるね。けれど私はね、"外側"の領域も、3つの角と3つの辺をもつ閉じた領域じゃないか、ということに気がついたわけなんだ。

こどもたちの眼はそのままフラーの幾何学に染みこむ。近代的で、どこを切っても等質である「教育」は手のなかで踊る疑問符を捨ててしまう。人のもっとも大事なはたらきが追いやられてしまう。こどもたちはみるみるうちにシナジェティクスを自分の道具にしていく。この様がなんとも痛快。

私は"世界の残りの方"に興味がある。

残余こそ、いつも気にかけておきたいものだ。


フラーの発明のひとつにダイマクション・マップがある。これは距離や方向の歪みが最小となってそのままの地球の姿を把握できるだけでなく、地球の大陸が独立した島から構成されるのではなく、一続きの陸地になって見える。フラーはこのマップの上で文明がどのように誕生してどのように伝わっていったかを語り、地球上のあらゆる場所にエネルギーを配分するエネルギー・グリッドを構想する。エネルギー問題を解決すれば、あらゆる問題を解決できる。フラーはそう語り続けた。

先日スマトラ沖地震が発生し、大津波がいくつもの島を都市を飲みこみ、人をさらっていった。これにはギクリとした。フラーのダイマクション・マップでは、もっとも人口密度が高い三角形がインド、スリランカインドシナスマトラ、ジャワ、ボルネオそして中国を含む三角形であったからだ。この三角形のなかに人類の34%が住んでいる。

フラーに近代的科学者の姿は似合わない。むしろプラトンピタゴラスのほうがぐっとくる。疑問符に熱中し、疑問符と語り合い、疑問符に遊ぶ。そんな幾何学精神が足りない。ファーストフードのような冷えた思考の断片ばかりが「教育」にもたらされる。世界熱中症になるくらいの機会をつくってみるといい。もっともっと生きてみたくなる。

そんなフラーのダイニングに贈りたいのがチック・コリアの【Children's Songs】だ。こどもの心をなぞっていくような20のピアノの小品とアンコールの一品。アンコールはさしずめ先生がはしゃぎすぎたこどもをちょっとたしなめる風情。


そういえば鎌倉アカデミアには、「幾何学を学ばざる者、この門を入るべからず」という扁額が掲げられていたっけ。