『消えたニページ』(寺村輝夫作、中村宏絵) 〜 【another mind】(Hiromi)

消えた2ページ (フォア文庫)

消えた2ページ (フォア文庫)


1970年は昭和の曲がり角だった。

大阪で坂本九の歌とともに万国博覧会が開かれ、70年安保に揺れ、LSIの実用化に成功し、ジャック・モノーの『偶然と必然』が発表され、カラーコピーが登場し、ポーランド暴動が起こり、三島由紀夫が割腹自殺をし、ピンクフロイドが『原子心母』を発表し、ビートルズが解散し、ジャニス・ジョップリンジミ・ヘンドリックスが薬物死をとげた年であった。現在に繋がるこれだけの事態がこの一年に集中していた。

『消えたニページ』が出版されたのもこの1970年だった。突如訪れるかも知れない未来への驀進と不安が入り混じった年だった。最近復刊された本は残念ながら造本が異なるが、ハードカバーに中村宏が挿絵と造本、これだけで強烈な存在感をもった本ができあがった。
中学二年のときにこの本を手にしたのだが、この造本がえらく気に入っていた。


友太が妹のカオリにせがまれて『大きなたまごやき』という本の『逃げだせ王さま』という本を読んでやる。

−さて、これも王さまのはなしです。王さまのわがままにも、こまったものです。王さまのいばりやにも、こまったものです。そこで、おしろの人たちは、あつまってそうだんしました−

大臣にはかせ、兵隊の隊長から床屋、コックから医者にいたるまでが、あつまって相談、王さまのひとつひとつを注意することになる。王さまはたまらなくなる。

「こんどから、わしにもんくをいうものは、ろうやに入れてしまうぞ。」

といいだした。けれども、大臣たちは注意するのをやめなかった。王さまは、とうとうおこりだして、ほんとうにみんなをろうやにいれてしまった。もう、もんくをいう者はいない。

「わしは自由だ!」

王さまはさけんだ。そして、おしろをぬけだして、どこかへ行こうと思う。いろいろな計画を、たててみた。海−? 山−? 川−?

そして、さいごにこういうことばでおわっていた。


−やっとの思いで、たどりついたのは、王さまの、じぶんのおしろのうら門でした。

もちろんこれは本のなかの本の話。ところが、さあ読み終わったぞという友太にカオリが食いつく。

「だめよ、おにいちゃんのインチキ。ぬかして読んだじゃない。」

たしかに話の辻褄があわない。逃げ出したはずの王さまの行き着いたところが、お城の裏門。そして本を調べてみると、はたして29ページと30ページが抜けている。ここから友太の消えたページ探しの旅がはじまる。本のなかに入りこんだり、突然現実の世界にひきもどされたり、この冒険がたまらない。饒舌な描写はなく、歩き走りつづける小気味良いテンポで物語が進んでいく。この本をはじめて読んだとき、自分のなかでたしかに友太と王様が走っているのを感じていた。

一度消えたはずのニページを取り戻すのだが、どうもおかしい。自分が見たニページとはどうも異なるみたいなのだ。カオリの本にはこうあった。

わがまま、はんたい。はんたい学で、ほめられる子どもになれ。


わがまま、いたずらで、ママや、先生のいうことをきくのをやめよう。

正反対のことが書いてある。そして友太ははたと気づく。どう書いてあろうが構わない。自分がどちらを選ぶかが問題だ。そしてどこからか海の匂いがぷうんとすると、図書館は消え失せ、友太はヨットで海にくりだしていく。


まず問題がもちあがり、問題を解決するために旅に出る。そして幾多の試練を受け戻る。だがふたたび旅に出る。これは「物語」が持つ典型的な類型のひとつである。この構造が二重化されながら物語が進む。参照する自分と参照される自分が同時進行する。これが痛快だ。『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ)もよいのだけれど、少し饒舌にすぎる。ぼくは『消えたニページ』のような鉱物的囁きについひかれてしまう。

実は児童書には案外名作が多い。だがいつのまにか忘れられ、絶版になる本も多い。いまはインスタントに様々な本を出版できる時代になったけれど、本としての寿命も加速度的に短くなっているような気がする。本を読んで感動する。そしてその本を読み継ぐ。こんなあたりまえのことが難しくなっている。

本は人が文化のなかで利用するもっとも古いメディアのひとつであり、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』のように焚書の時代を迎えたら、おそらく文化も薄れていくだろう。電子ばかりが情報じゃない。本をポケットにしのばせるのもなかなかにダンディな所作なのである。


さて、疾走するこどものこころにはHiromiの【another mind】より【The Tom and Jerry Show】を。これはボーナス・トラックであるが、Hiromiの遊び心たっぷりのオスカー・ピーターソンも圧倒するナンバー。こどもをなめてはなりませぬ。


『消えたニページ』では、結論は書かれない。結論を消すことで生まれる自由だってある。


こどものこころは消しゴムの自由で満たされている。