『百鬼夜行抄』(今市子) 〜 【ノマドソウル】(元ちとせ)
- 作者: 今市子
- 出版社/メーカー: 朝日ソノラマ
- 発売日: 2000/12
- メディア: 文庫
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日本の隙間はとびきり美しい。
物語というものは前面にさらけだされているものではない。そこかしこにあるモノ・コトの小さな隙間にひそんでいる。物の怪にだって棲家が用意されていたわけだ。
…狐憑きの言い伝えは地方によっていろいろ違いますけれど
この尾崎の家は昔から狐を飼って家を繁盛させてきたと言われています
狐が死に絶えて家が没落しかけると、どこからか嫁をもらってきてはまた栄えたそうです
けれど狐が増えすぎると災いも増え
その家の娘が嫁に行くと狐も一緒についていったので
しだいに狐憑きの家と忌み嫌われるようになりました
狐憑きの娘をもらったら早いうちに離縁すればいいけれど
子ができてからでは
その狐の子は家についてしまって離れないとかいうそうです
この人が尾崎金造さんと言って
どこからか嫁をもらってきて傾きかけた家をたて直したそうです
家も盛り返し、その狐だか狐憑きだかのお嫁さんに子ができたというので
家の者は金造さんに離縁をせまったそうです
昔の話とはいえむごいことですわねえ
ところが金造さんは離縁せず、お嫁さんに子を産ませたそうです
産まれた子は半分人間、半分狐…
金造さんは仕方なくその子供を行李につめて水に沈めたとか
その後、金造さんは奥さんを連れて行方をくらまし、家には富が残りました
"金造"とはよくつけたものだと
この家に伝わる昔話です
(『行李の中』)
漫画だからとあなどれない。いつのまにか忍び寄ってくる物語の結構についひきこまれてしまう。
日本はかつてこのような隙間であふれかえっていた。近代化の装いとひきかえに隙間を捨てていった。物の怪たちはどこに行ってしまったのか。襲ってくる物の怪といえば悪夢ばかりになってしまった。『百鬼夜行抄』を読んでいると迂闊にも日本を感じてしまう。忘れかけていた日本が思わず噴き出してしまう。そんな空間がたちこめている。
今市子の筆致にも注目しておきたい。過剰に飾り立てるでもなく、乱暴に動きばかりを描きこむだけでなく、吹出しばかりを並べ立てるでもなく、中性的筆致で淡々とモノとコトの境をまぎらしていく。ふつふつと折口信夫の溜息が聞こえてきそうだ。
漫画にここまで空間や時間を感じてしまうのはなぜか。
おそらくは輪郭線に秘密がある。およそぼくたちが眼にするものには輪郭線はない。試しに眼の前のカップの輪郭線をなぞってみるといい。触れることができるのはカップの表面ばかりで輪郭線はどこにもない。輪郭線はそのモノ・コトにあるのではなく、こころのなかにある。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、モナリザに輪郭線を描かなかった。肩の線も何度も重ねて塗り、背景と肩の境をぼかし一切の輪郭線を消去する。スフマートである。するとぼくたちの眼にはまるで「写真」のようなモナリザが浮かび上がってくる。おそらくはぼくたちがこころのなかでモナリザを認識したときに、こころのなかに輪郭線が発生している。認識とは輪郭線を与えることでもある。
モナリザが謎の微笑みを投げかける。微笑みが動いているように感じる。もちろん一枚の絵が動くわけはないが、ふっと動いているように感じる。ひとつの対象に対して、こころのなかの輪郭線はひとつではない。時事刻々と輪郭線が生成され、その輪郭線が繋がれていく。ここに「動き」の認識がある。おそらくは「微笑みかけられる」ように感じるのも、こころのなかで輪郭線が繋げられているからだろう。鳥羽僧正の「鳥獣戯画」に躍動する動きを感じてしまうのも、その絶妙な輪郭線にある。
日本はこの「輪郭線」に早くから気づいていたようだ。浮世絵から絵巻物、読本にいたるまで豊饒な輪郭線が踊っている。類い稀な木版画を生みだしたのもこの輪郭線だろう。そして、さらにこころのなかの輪郭線の自覚がつめられて「間」を生んだのかも知れない。アメリカン・コミックを見てどうも覚束無さを感じるのも、その輪郭線が日本人のこころの輪郭線とうまくあわないからかも知れない。
手塚治虫は輪郭線の天才だった。キャラクターからコマ割りにいたるまで、あらゆる場面に輪郭線が自在に配置される。やがてこの輪郭線がアニメーションに繋がっていく。日本のアニメーションは天下一品といわれるが、これは鳥獣戯画に連なる輪郭線の文化である。日本はまさに輪郭線の王国だったのである。
今市子の筆致はそんな日本の輪郭線に重なる。飾るでも省略してしまうのでもなく、ただたしかな輪郭線がある。これに脱帽した。輪郭線だけではない。「家屋」ともいうべき日本の原風景を持ちだす。これはたまらない。
もうひとり、いつも日本を感じてしまうのが元ちとせである。『百鬼夜行抄』にはぜひ【ノマドソウル】を贈りたい。元ちとせにはいつか与謝野晶子を唄ってもらいたいと思っている。
日本の響く夜、こころの輪郭線をなぞって月がすべる。