『劇場としてのコンピュータ』(ブレンダ・ローレル) 〜 【陽光と静寂】(マドレデウス)

(日本語版、アジソン ウェスレイ・トッパンより1992年初版、現在絶版)

"Computers As Theatre" (Brenda Laurel)



人はいつも喩えずにはいられない。


コンピュータは人にとっては異物である。ただそこにあるだけでは、それが何物であるかがわからない。話し相手になってくれるのか、ナイフのように肉を切れるのか、それともどこかへ飛べるのか。相手とも道具とも乗り物ともつかない。そこでコンピュータに既に知っている何物かの「フリ」をさせる。これがメタファーを利用してしつらえられるインターフェースというわけだ。

マッキントッシュの登場以来、さかんに用いられているメタファーが「デスクトップ」である。ディスプレイに表示される事物の絵を机のうえになぞらえる。たとえば、机のうえの書類をフォルダにもっていけば、「書類がフォルダにしまわれる」というわけだ。そしてディスプレイのなかにある事物に触れるために、マウスという「入力装置」を動かすこと、ディスプレイに現われるマウスの影をディスプレイのなかの事物に重ねること、そして重ねた状態でマウスのボタンをクリックすることなど基本の「操作」を覚える。これはインターフェースと自分をつなぐ方法。

すると、ディスプレイのなかの書類をマウスでズリズリと引きずり、ディスプレイのなかのフォルダに収めることができるようになる。異物であるはずのコンピュータをメタファーにより利用しているわけである。

メタファーの利用はなにも特別なことではない。メタファーは、およそあらゆる場面で日常茶飯事に利用されている。たとえばはじめてトラを見る。するとすでに知っているライオンに思いあたる。そして「ライオン」のようにトラと接する。そしてライオンとの差異を集め、「トラ」というこころのなかの実体を組み立てていく。メタファーがあるからこそ、はじめての事物にも触れられる。メタファーはハイパーテキストのようなハードで静的なリンクでなく、意味のリンクをつけていく。こころのなかでは、「トラ」も「ライオン」も相互にリンクされているというわけだ。ここに世界の関係性のはじまりがある。

メタファーの先にはモデルがある。コンピュータを机と同じように扱えるのは、利用するメタファー、操作が体系づけられ、デスクトップというモデルにしたがって振る舞っているからである。ブレンダ・ローレルがここにもちこんだのが「劇場」であった。

ヒューマン=コンピュータ・アクティビティという考え方から、たくさんの興味深い結論を導き出すことができそうだ。行動を起こすのはすべて表現の世界に限られているので、すべてのエージェントが同じコンテクストを共有し、同じ対象に接近し、同じ言語を話す。そこに参加するものは、何が理解されるかを知ることで、話すべき言語を学び、対象とともに役柄を演じることで、その対象がどういうもので何をするものなのかを学ぶのである。このアプローチのよい例が<リハーサルによるプログラミング>と呼ばれるシステムで、一九八三年から八四年にかけてゼロックスのパロアルト研究センター(PARC)のローラ・グールドとウィリアム・フィンザーの手で開発された。このシステムは、ある演劇的メタファーに基づいたビジュアルなプログラミング環境を与えるものである。

この本が書かれたころ、おそらくはブレンダ・ローレルのなかでは「演劇・劇場」「リハーサル・システム」「エージェント」が近傍で響きあって見えていた。そしていよいよコンピュータのなかで退屈なデスクトップにかわって、魅惑的な「劇場モデル」が動きだそうとしていることを感じたのだろう。

「リハーサル」のころ(たしか八十年代に「バイト誌」にいち早く記事が出た)、アップルは「ガイズ・プロジェクト」と呼ぶコンピュータの利用者を自然にガイドするプロジェクトを進めていた。人工知能が一大ブームになっていたこともあり、コンピュータのなかで「人格」をもったキャラクタ(エージェント)が、利用者の動作を察知して自然にナビゲートするシステムの開発が流行していた。「ガイズ」は慣れない利用者がデータベースを検索していると、すかさずスマートに検索のサポートをしてくれた。

このような人とコンピュータのあいだのインタラクションに、ローレルは「劇」を見た。そして「劇場」のメタファーにより人とコンピュータのインターフェースの可能性のひとつを描きだしてみせたというわけである。そこでエージェント(自律して動くプログラム)を役者や演出家、脚本家に見立て、人(観客)とどのようにコミュニケーションし、エージェント同士がどのようにコミュニケーションしていくかを「劇場モデル」で組み立てようとした。

だが、ここにあまり「たしからしさ」を感じられない。「デスクトップ」が「劇場」に変わっても、自分とコンピュータの関係が劇的に変わるとは思えない。相変わらずコンピュータ内部のシステム実装モデルの話である。


ローレルが見落としていたのは「空間」と「時間」だった。ローレルだけではない。およそコンピュータについて語る学者や技術者でいまだこれを語ったものはいないだろう。人は事物の差異から時間を自覚し、その連なりから空間を認識する。そしてその空間の出来事に名前をつけ、物語を構成する。だから人は自分で構成する物語空間の外には出られない。コンピュータが人の隣のメディアとなるためには、なによりも物語に優しくなるべきだろう。コンピュータ内部のモデルより、人のこころのモデルからはじめるとよい。

インターフェース・メタファーの問題点は、デスクトップ・メタファーのフォルダーその他の点からわかるように、現実のようだが現実とは違っているという点である。ではなぜこれが問題なのだろう? それはわれわれが、何が<どう>違うかを知らないからである。インターフェース・メタファーをきちんとメタファーとして扱っていれば、それはきちんと役に立っていたろう。ところが実際には、インターフェース・メタファーはメタファー(隠喩)ではない。それは<シミル(直喩)>である。

そしてローレルは告白する。

インターフェース・シミルを使おうとすると、何が起こるか。悲しいかな、そうすると私たちは<コンピュータの中で>何が起こっているのかについて、頭の中でモデルを組み上げねばならなくなり、このためシミルも現実世界のものも実体も十分には理解できなくなるだろう。例えば、マッキントッシュ・デスクトップのトラッシュ・カン(くずかご)の正確な働きを知るためには、トラッシュ・カンの持ついくつかの異なった働きそれぞれについて、頭の中で精密なモデルを組み上げねばならない。これではインターフェース・メタファーはものごとを簡単にすることにはならない。

ここにローレルの混乱と葛藤がある。メタファーを追いかけてもモデルが不足する。モデルが不足するとメタファーが必要になる。けして埋めることのできない隙間が口を開ける。

コンピュータはもともと計算機であり、機械だった。人からは遠い存在だった。ところが、デジタルという情報の様式を利用したり、コミュニケーションのための環境の構築に一役買うと、コンピュータはぐっと人に近くなる。そして人との「やりとり」がはじまると、「やりとりのためのモデル」が必要になる。いままでは、コンピュータが人から少し離れたところで働くモデルで十分だった。だから「デスクトップ」で十分だった。


そろそろ新しいモデルが準備される頃合だ。機械という概念だって捨ててよい。もう少し人に学びたい。この十年あまりのソフトウエア・ムーブメントの様子を見ていると、そろそろはじまっている気がする。フリーソフトウエアからオープンソース、インターネット、LinuxからSqueak、このどれもが新しいモデルに向かっているようだ。コンピュータが機械の衣を脱ぐ日が近づいている。


さて、ブレンダ・ローレルにはマドレデウスの【陽光と静寂】を。ファドに乗せて漂うサウダージ。海に向かって歌えば、黄昏に向かって歌えば、きっとこんな歌になる。


コンピュータに必要なのは、ただ黄昏であった。