『黒いカーニバル』(レイ・ブラッドベリ) 〜 【翼●武満徹ポップ・ソングス】(石川セリ)

黒いカーニバル (ハヤカワ文庫 NV 120)

黒いカーニバル (ハヤカワ文庫 NV 120)


カーニバルにはいつも取り残されてしまう。


小学生のとき、夏の八幡神社のお祭りはたいそうにぎやかで、見世物小屋も立っていた。一番の見世物は蛇女。化粧の濃い、ジャングルからついさっき出てきたばかりのような女性が、大蛇を首に巻いて登場する。蛇の首を片手で差し出し、いくつかのポーズを取ったあと、ときおり首に手をやり苦しそうな面持ちをする。まるで蛇の怒りに触れ、首を絞められているかのような…。ぼくの原体験のひとつにこの光景がある。はじめてブラッドベリを読んだとき、このときの光景がまざまざと蘇った。翌年はもう見世物小屋は立たなかった。


ブラッドベリの世界にはおよそ境界線がない。夢と現実、生と死、過去と未来、どこを見渡してもその境がない。これこそ想像力の面目である。

波がわたしを世界から切り離した―空を飛ぶ鳥と、渚の子供たちと、浜辺にいる母から。ひとときの緑の静けさ。そしてふたたび、波はわたしに空と砂と騒ぐ子供たちを返してくれた。湖からあがると、出かけたときとほとんど変わらない姿で、世界がわたしを待っていた。 (「みずうみ」)

この美しく短い書きだしのなかで、すでに物語の舞台設定が終わっている。ブラッドベリといえば、日本では『火星年代記』や『華氏451度』のイメージが強いのか、いわゆる古いSF作家として見られる。そして日本では「SF」というだけでなにか夢想に満ちた低級の作家のようなイメージがまとわりついてしまう。だが、御覧の表現を見てもわかるとおり、ブラッドベリはただものではない。剃刀の刃をわたるような表現がいつも周到に準備されている。いつも物語を物語る者なのだ。

もちろん、いまのSFのような派手さはない。ブラッドベリもそのようなイメージを書きこもうとしているわけではない。想像力をこそ持ちこもうとした。映画化してもCGなどまるで必要としない作品がはるかに多い。中学生のころ、ハインラインにSFに引きずりこまれ、ブラッドベリにのめりこみ、ウェルズをおやつに食べていた。幼い想像力を存分にかきたてられていた。想像力が世界をも造ってしまうことを確信したものだった。

いま、とんと物語が不足している。想像力が途端に踊りだすような物語が不足し、奇妙な出来事ばかりを連ねる「作品」があまりに多い。物語に踊るより、出来事をその場で消費してしまう。どんなに突拍子もない映像を見せつけられたところで、それが物語であるわけではない。想像力をかきたて、あっというまに「あちら」に運ばれてしまう。そんな体験こそ、物語の醍醐味だ。


ブラッドベリにも好みがある。カーニバル、浜辺、メリーゴーランド、観覧車、刺青、避雷針、風、道、砂。どれもブラッドベリの作品にたびたび登場する。こどもの玩具箱にしまわれているもの、それがブラッドベリの基本である。「避雷針を売る男」などは、ガルシア・マルケスの「棒状磁石を引きずって歩く男(『百年の孤独』)」より遥かに秀逸だと思いたい。これらの愛しき玩具がぐるぐる回りながらブラッドベリの想像の王国をつくりだしていく。

「いいだろう?」と彼はうわずった声でいった。「すごいだろう!」

リサの周囲では、家が木材の奔流となって渦巻いていた。紙を見つめているだけなのに、言葉がみるみる溶け、生あるものへと変化してゆくのが実感として伝わってくるのだった。紙は、まばゆい陽のさしこむ四角い窓。そのなかに少し体をのりだせば、もっと明るい琥珀色の別世界をまのあたりにすることができそうだ! リサの心は、振子のように揺れていた。ともすると、存在しえないその三次元の世界に、まっさかさまに転落しそうになる。彼女は恐怖の叫びをこらえて、信じられぬ紙の窓枠に必死にしがみついていなくてはならなかった。 (詩)

男の書いた詩のなかに、世界が吸い取られていく。完璧な詩と底のない恐怖のせめぎあい。この想像力のドライブ感がたまらない。


さて、遠くで回転木馬が止まる頃合には、石川セリの【翼●武満徹ポップ・ソングス】を。生前武満は自分のライバルは井上陽水だと公言していた。そしていままで発表されたポップ・ソングをもう一度編曲し直し、石川セリに歌をお願いした。

●小さな空


青空みたら

綿のような雲が

悲しみをのせて

飛んでいった

いたずらが過ぎて

叱られて泣いた

こどもの頃を憶いだした

(詞:武満徹

これは、一九六一年ごろのラジオ・ドラマ『ガン・キング』のために書かれた明るいスローなワルツ。いまも新鮮。六十年安保のときにつくられた名曲「死んだ男の残したものは」はボサノバ調にアレンジされて登場。でも、この曲はバルバラに歌ってもらいたかった。


もう、言葉はいらないだろう。

月の明るい夜は、テレビを消して物語を読みたいもの。