『われ思うゆえに思考実験あり』(橋元淳一郎) 〜 【海辺のアインシュタイン】(ロバート・ウィルソン/フィリップ・グラス)

われ思うゆえに思考実験あり―最新科学理論がもたらす究極の知的冒険

われ思うゆえに思考実験あり―最新科学理論がもたらす究極の知的冒険


科学はいつもぼくたちを彼方へ連れて行ってくれる、はずだった。

横尾忠則は「地球の果てまで連れてって」と唄っていた。


そんな科学の姿が薄れ、巨大な都市の塔として科学が立ち上がったのはいつからであったか。まだ科学と芸術の概念すら未分化であったころ、Artistという言葉にあこがれてScientistという言葉が造られる。科学者は早く一人前になりたかった。

地球の形はどうなっているのか。地球の外はどうなっているのか。物はなぜ落下するのか。物と物が衝突するとどうなるのか。なぜ木は水に浮くのか。水を熱するとなぜ湯気が出るのか。なぜ吸っても吸っても空気がなくならないのか。なぜ物が燃えるのか。光は曲がるのか。なぜ音が聞こえ、物が見えるのか。なぜ鳥は飛べるのか。なぜ蛙の子は蛙なのか。

科学という道具・方法は、世界の認識に整合性を与え、世界の理解に光明をもたらした。夜見る夢ではなく、現実の世界として人と人が話をすることができた。ピタゴラスが考えていたこと、デカルトが考えていたこと、ダーウィンが考えていたこと、アインシュタインが考えていたこと、みないまも考えることができる。科学というフレームがあるからこそ、ひとりの人の脳の壁を破り、同じことを考えることができる。

だが、ちかごろの科学は頗るあやしい。どうも同じことを考えることを拒んだり、同じ事を考えるには生活を捨て去るほど高飛びをしなくてはならなくなったりする。きっと、どこかで科学が人のサイズを超えてしまうほどに膨れ上がった。だからいまの「科学」にはいつも「巨大」という印象が暗黙のうちにまとわりついている。

そんな静かな恐怖にとらわれてひところ口にされたのがジョン・ホーガンらの『科学の終焉』だった。だれもが暗黙のうちに思っていたこと、あまりに加速度がついて膨れあがっているのでとめるきっかけも失ってしまった科学に「終焉」の宣告をする。これが流行した。だが、「終焉」のあとに持ちだされたのは「神秘」や「自然」や「アート」であるばかりだった。これでは終焉でなく終演である。


もう一度考えてもらいたい。科学とは、「こころに整合性をもたらし(こころの科学)」「人を人の外へ連れて行ってくれる飛行道具(想像の科学)」であり「微力な人にエネルギーを与える(欲望の科学)」ものであった。だが、この三番目が人のこころに潜む欲望と結びついたとき、科学は「科学」となり、人が自分では制御できないほどの原子のエネルギーをもたらし、捨てることも出来ずに恐怖におののくことになった。巨大化して科学の枠を侵食したのは、三番目の「欲望の科学」である。「科学の終焉」とはあらゆる科学的思考の破綻ではない。三つの科学のバランスが崩れ、科学的思考が自由にはたらかなくなってしまった模様である。

だから、「科学」の後に「神秘」をおいてもそれはあたらない。もういちど「こころの科学」と「想像の科学」をはたらかせて「欲望の科学」との綾を取り戻すのが良い。そんな思考が近代になってから鈍ってしまった。


だからこの本を読んでもらいたい。

ひとつには、疑似科学という言葉にできれば市民権を与えたいということ。科学ではない=糾弾すべき悪者、というニュアンスを拭い去りたいのである。

もうひとつの理由は、本書は正当な科学書とはスタンスが少し違いますよ、ということを強調したいためである。

つまり過激に言えば、科学批判ということであります。しかし、ボクは論争だとかケンカという過激なことは好まないヤワな人間なので、真っ正面から科学批判をするつもりはもうとうありません。

従来の科学の枠に囚われず、もっと自由に(言い換えると、もっといいかげんに)、しかし知性と理性を失わず、宇宙や人間のことを考えてみませんか、というおそるおそるの提案なのである。

次に「思考実験」であるが、これも、アインシュタインが提唱したような素晴らしい思考実験の数々を想起してもらっては困るのである。

実験やフィールド・ワークの嫌いな不精な「擬似科学者」が、狭くきたない書斎で妄想を繰り広げる、それを単に思考実験と呼ぼうというくらいの意味である。

そして思考実験のテーマにあげられるのが、「葉緑体人間は可能か」「人工生命は自己意識を持てるか」「自己意識とは何か」「時間とエントロピー」「時間はなぜ過去から未来に流れるのか」「真の実在を求めて」の六つ。この按配を存分に愉しんでいただきたい。これが科学を思いだすきっかけになる。


さて、科学でない科学にはオペラでないオペラ【海辺のアインシュタイン】を。オペラにだって思考実験が必要なのである。


ぼくたちは、科学にシンコペーションされる。